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アンドレス グアルダード (MEX)
ラボルペ監督の秘密兵器、アンドレス・グアルダード
1年前、まだ無名だったアンドレス・グアルダードは、メキシコリーグの強豪クラブ、アトラスの控え選手にすぎず、メキシコサッカーの最高峰で実力が発揮できるチャンスをひたすら待ち続けていた。しかし、そのわずか1年後に大きな飛躍を遂げることになるとは思いもしなかっただろう。
グアルダードのサクセスストーリーは、まさに流星の勢いだ。メキシコのトップリーグでプロデビューを果たすことは、彼にとって幼い頃からの夢だった。いまや彼は、自身の明晰な頭脳、運動神経、そして俊敏さを武器に夢を実現し、メキシコサッカー界に名前の知れ渡る存在となった。

相手チームのディフェンダーを翻弄させるウィングの名士には、油断も隙も見せられない。いつも左サイドを縦横無尽に駆け回っているグアルダードだが、チーム最後尾の要となるウィングバックとして起用されることもある。彼には、驚くほどの万能性が備わっているのだ。

成功への手助け
メキシコリーグの中で、アトラスの育成システムは最も成功している。グアダラハラを地元とするアトラスのユースチームは、これまでにワールドクラスのサッカー選手を数多く輩出してきた。ディフェンダーのラファエル・マルケスや、キーパーのオズワルド・サンチェス、そしてミッドフィルダーのパベル・ペドロは、現在、メキシコ代表の主力選手であり、所属するバルセロナでもその活躍はめざましい。メキシコサッカー界の新星、グアルダードもまた、そのロヒネグロ(アトラスの愛称)サッカーアカデミーの卒業生である。

革新的なメキシコサッカー協会(FMF)が先導する若手育成への取り組みの一環として、若きグアルダードにもチャンスが与えられた。2005年半ばより、全クラブチームに、メキシコリーグの全試合数の半分において21歳未満の若手選手を起用することが義務付けられたのである。このサッカー協会の取り組みにより、アトラスの俊足グアルダードは恩恵にあずかることになった。

リーグの存続をかけて苦戦を強いられている最下位チームは、最下位脱出を狙い、安全策として経験豊富なベテラン選手のみを起用することが多い。アトラスもシーズン当初はそうした傾向にあったが、結果は3連敗という苦渋を味わった。そのためアトラスは、その失敗で得た教訓と、若手選手起用に関するFMFの新規定に伴い、今まで実績のなかった若手を起用せざるをえない状況となった。そして、グアルダードの起用は功を奏した。

スターダムへの急進
グアルダードがプロデビューを飾ったのは、2005年の"トルネオアペルチュラ"(リーグ選手権)での第4試合目だった。アトラスの対戦相手はパチューカ。残り時間15分、2-2の同点で激しい攻防が繰り広げられていた最中、俊足グアルダードは後ろを振り返ることもなく、相手の守備陣を見事にかわしてピッチを駆け回り、87分、アトラスの決勝点を挙げた。そして、彼は大会での14試合のうち13試合に出場し、その活躍が買われ、遂にメキシコ代表入りを手に入れた。

アトラスでのデビュー戦からわずか3ヶ月で9試合出場を果たしたグアルダードは、2005年12月12日、メキシコ代表の有名な緑色のユニフォームを身につけ、ハンガリーとの親善試合に出場した。トリコロール軍団メキシコは快勝し、グアルダードはサッカーの国際舞台で輝かしい第一歩を飾った。リカルド・ラボルペ監督もグアルダードの活躍ぶりに満足していた。ピッチを駆け回るグアルダードは緊張感で固くなることもなく、のびのびとプレーするその姿は、まるで学校の校庭を駆け回る少年を思わせた。

その試合以降、グアルダードはメキシコ代表の試合には欠かせない存在となり、3試合連続出場を果たすと、その才能に周囲は圧倒された。ラボルペ監督はグアルダードの才能についてこう語る。「19歳の少年とは思えないほどの威力を感じる。ピッチを縦横無尽に駆け回り、恐れを知らない。緊張して固くなるかもしれないと案じていたが、そんなことなどまったくなく、祖国のためにいいプレーをして見せた。個性が強く、いい意味で図太い神経の持ち主だ。2006年ドイツ大会で、ジレットベストヤングプレーヤー賞の受賞候補になることは間違いない」。
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ライアン バベル (NED)
ファンバステンの期待に応えるバベル
アヤックス生え抜きのティーンエージャー、ライアン・バベルは、2005年3月26日のオランダ代表デビュー戦で大きな脚光を浴びた。
代表戦という晴れの舞台には、新人選手は誰でも威圧されてしまうものだ。それが、そのわずか13ヶ月前にクラブサッカーのシニア入りを果たしたばかりの18歳の選手にとってはなおさらのことだろう。それでもバベルはスポットライトに萎縮するどころか、本領発揮の活躍を見せる。ブカレストで催されたFIFA ワールドカップ™地区予選の対ルーマニア戦に、試合開始約20分後に負傷したアリエン・ロッベンに代わって登場したバベルは、代表監督マルコ・ファンバステンの期待に応え見事この試合で2点目となるゴールを決め、オランダを2-0の勝利に導いた。

ファンバステン率いるオランダ代表にとって、この試合での勝利はドイツ本大会に向けた大きな一歩であったが、アムステルダム生まれのバベルにとっても大きなステップとなった。68年ぶりの最年少ゴールスコアラーとなったことによって、最近のアヤックス・アカデミー出身者としてもてはやされるバベル人気の裏には、真の実力がしっかりと育まれていることを証明してみせた。

185センチの身長とスピードに恵まれたバベルは、11歳の頃からアヤックスに所属している。2004年に当時のアヤックス監督ロナルト・クーマンから 17歳2ヶ月でデビューのチャンスを与えられ、ユースからシニアに移った。

若手にチャンスを与えることで有名なこのクラブでは、バベルの早急とも思える起用も特に珍しいことではないが、この起用は確かに彼の早熟なフォワードの才能を認めたものだった。右利きのバベルは、センターストライカーだけでなく、ライトやレフトのサイドでも(今期のアヤックスでの彼のポジション)プレーすることができる。スピードとフェイント技術に長けた彼のような選手が後者のポジションについた場合、ディフェンダーにとってはやりにくいものだが、それが得点力をも備えるバベルであれば、本当に厄介な相手となる。

アヤックスでデビューを果たしてから9ヵ月後の2004年11月20日、バベルはリーグの対デ・フラーフスハプ戦で初ゴールを挙げ、チームの5-0の勝利に貢献する。この頃までに、バベルはスターティングメンバーとしてレギュラー入りし、エールディヴィジ(オランダ一部リーグ)の2004/05シーズンで7得点を挙げた。昨年7月に契約を更新した後、オランダスーパーカップの決勝で前回の王者PSVアイントホーフェンを相手に決勝点を挙げ、アヤックスの2-1の勝利に貢献し、今シーズンを華麗にスタートさせた。

UEFAチャンピオンズリーグのグループ予選では、出場5試合で着実な成長を見せ、ブロンビーとの2試合で得点を挙げると、アヤックスも順調に決勝ラウンドに進んだ。しかし、2 度目のフルシーズンとなるリーグ戦ではなかなか得点を挙げることができず、年が明けるまでの得点数はわずか1ゴールにとどまった。

アヤックスの若手ヘドウィヘス・マドゥロと同様、バベルがオランダ代表監督ファンバステンの若手起用方針の恩恵を受けていることは間違いなく、昨年3月のデビュー戦以来、オランダ代表にレギュラー参加もしている。2005年には、アルメニア戦、マケドニア戦、そしてイタリア戦の3試合に出場し、11月のホームにおけるイタリア戦ではオランダが3-1の負けを喫するものの、バベルは2本目の代表ゴールを挙げた。

バベルは、昨年夏の FIFAワールドユースでもオランダのキーメンバーとして貴重な代表試合の経験を積み、日本とチリ戦で得点を挙げて、オランダのベスト8進出に貢献した。19歳となった彼の前には、シニアの世界の檜舞台として6月のワールドカップドイツ大会が待ち受ける。FIFAワールドカップ™のオランダ代表に入るのは容易ではないが、バベルは果敢にチャレンジに臨むことだろう。

トランキロ バルネッタ (SUI)
スイス代表で最もおとなしいと言われるこの若手選手にとって「静か」あるいは「謙虚」という意味の「トランクイロ」ほどふさわしい名はないだろう。
ただし「お人好しは馬鹿をみる」ということわざは彼には当てはまらない。バルネッタは気取らない性格だが、これまでの若いキャリアですでに素晴らしい功績を残している。16歳でU-17ヨーロッパ選手権優勝を達成し、その2年後には早々とA代表に招集されている。最近ではブンデスリーガ所属のバイヤー・レバークーゼンの1軍に定着している。

その名が予想させる通り、バルネッタはイタリア系の家族出身である。ただし、彼はスイス代表の多くの若手選手とは違い、パスポートは1つしか所持しておらず、自分は「100%スイス人」だと言う。第1次世界大戦以前に曽祖父が一家を連れてスイスに移住しており、バルネッタの生い立ちはスイスの伝統をしっかりと踏まえたものだった。

バルネッタは、かつて繊維産業の拠点として繁栄したスイス東部のザンクトガレン州で生まれ、地元の修道学校に通った後、街に残る数少ない繊維会社で実習期間を終えている。

静かに学業に励んでいたバルネッタだが、彼のサッカーの才能は地元スカウトに大きく呼びかけるものだった。年上の男子相手にどんぶりの形の「サン シロ」と呼ばれる草地で将来の職業となるサッカーを始めたバルネッタは、その後ほどなくロトモンテンのジュニアチームの一員として注目されるようになる。

左右両サイドから前線に出る能力はまだこの段階では発揮されず、若いバルネッタはフルバックとしてプレーすることが多かった。それでもトップリーグ所属のザンクトガレンに注目されるだけの活躍を見せていたバルネッタは同クラブのユースチームに11歳の若さで入団した。

ジュニアチームでスイスのもう一人の将来有望な選手、ダビデ・チウメントとプレーを共にした後、バルネッタは2002年にジェラール・カステーラ監督に選ばれて1軍に昇格した。同年、バルネッタはこれまでの自身最大の功績であるスイスのUEFA U-17選手権優勝に貢献した。これはスイスにとって現在も唯一の国際大会優勝である。バルネッタはフィリップ・センデロスやレト・ツィーグラーもいる優秀なチームの一員として、フランスとの決勝戦のPK戦で3本目のペナルティ キックを見事に決めた。

U-17チーム、さらに最初の2シーズンでトップリーグの試合に60試合出場したザンクトガレンでの活躍が認められ、バルネッタはUEFA ユーロ2004の開幕直前にスイス代表のコビ・クーン監督に招集された。さらにバイヤー・レバークーゼンへの海外移籍も果たしている。

ポルトガルとの試合には招集されなかったものの、バルネッタは2004年9月FIFAワールドカップ地区予選の対アイルランド戦で国際試合デビューを果たし見事な活躍を見せた。ホームで行われたこの試合は1-1の引き分けに終わったが、バルネッタはハカン・ヤキンの同点ゴールをアシストしている。

しかし、次の試合で彼にとって初めて大きな試練が訪れる。イスラエル代表のオムリ・アフェクとの接触プレーで十字靭帯を断裂してしまったのだ。6ヶ月の治療と集中的リハビリを行った結果、バルネッタは見事な復帰を果たした。現在体調は負傷する前よりも良くなっている。ハノーファーへのレンタル移籍を終えたバルネッタは現在レバークーゼンの1軍に定着しており、FIFAワールドカップではスイス代表の先発選手として出場する可能性が高い。

バルネッタは2005年6月のフェロー諸島への遠征を前に代表チームに復帰し、その後の予選試合には全て出場している。アウェーで行われたトルコ戦の決定的なプレーオフでも90分間のフル出場を果たした。スコットランドに3-1で勝利した3月の親善試合では国際試合での初ゴールを決め、ワールドカップ出場へさらなるアピールをした。

4月にスイスのFIFAワールドカップでの勝機について質問されたバルネッタは、2002年に優勝を果たしたスイスのU-17チームも格下と見られていたことを指摘し「優勝のチャンスはある」と言い切る。バルネッタは決してホラを吹くような選手ではなく、彼にしてみればジュニアチームでの成功がA代表で再現できない理由など見当たらないのであろう。つまり、バルネッタは静かな男ではあるが、同時に自信に満ちているのである。

セスク ファブレガス (ESP)
急成長のファブレガス
これまで地元スペインではあまり目立たない存在だったセスク・ファブレガスだが、ここ数ヶ月のアーセナルでの爆発的な好調ぶりに状況は急変している。
カタルーニャ地方出身の新星ファブレガスは、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント・ベスト16のレアル・マドリード戦で多大な活躍をみせ、その直後の国際試合デビュー戦で見せたパフォーマンスと併せて、2006年FIFAワールドカップに向けルイス・アラゴネス監督率いる23名の代表入りの可能性も出てきた。

新旧を含め多くのサッカー選手の中でもとりわけファブレガスを絶賛するのは、かつてのアーセナルの人気者ポール・マーソンである。最近のインタビューでマーソンは次のように語った。「彼のパフォーマンスから判断して当然代表入りするべきだか、もしその通りスペイン代表入りを果たせば、今年のワールドカップでは主役になりかねない。それほどの実力の持ち主だ」。ファブレガス本人はいつもの謙遜ぶりをみせ、代表入りについては「ぜひともドイツ大会に出場したい。とはいっても、これまでトップチームでプレーした経験は1度しかないけどね」とコメントしている。

スペインのチームプロフィールを読む

いずれにせよ、早熟なミッドフィルダーはスペイン代表ジュニアチームにおいて素晴らしい実績を残している。出場資格年齢に達したばかりの2003年FIFA U-17世界選手権フィンランド大会では、決勝でブラジル代表に敗れ惜しくも準優勝に終わったものの、最優秀選手賞と得点王に輝いた。

この大会での実績は、アーセナル移籍へのステップとなった。ファブレガスは、イングランドの一流クラブのトップチームでプレーする可能性を求めて、FCバルセロナのユースを後にしたのだ。わずか16歳という年齢でのこの決断はかなり大胆なものでリスクも大きいが、彼自身この決断に満足していると主張する。「16歳という年齢でこの決断に踏み切ったことについては満足している。多くの人たちから信頼を得ているということにも光栄に思うよ」。

新しい環境への順応期間を経て、ファブレガスはアーセナルのトップチームでのポジション確保を目指して、すぐさま再始動した。現在ではクラブにとって最も力のあるプレーヤーの1人として、地位を確立している。ほかの誰よりも彼の功績を高く評価するのは、監督を務めるアーセン・ベンゲルである。チームにとって貴重な存在として高く評価されるファブレガスのプロとしての成長を、監督は父親のように見守ってきた。

「フットボールは、1本のロープのようなものだ」とファブレガスは説明する。「そのロープの先端にはすべての源であり常に支えとなってくれる家族と仲間たちがいて、そのロープをたどっていくとさらなる助力を与えてくれる支援者たちにたどり着く。僕にとっては、アーセナルという一流クラブでプロデビューするチャンスを与えてくれたアーセン・べンゲル監督がまさにその人なんだ。どんな時も親切に惜しみなく後押ししてくれた。監督には感謝のしようがない」。

バルセロナから移籍して1年後、才能あるティーンエイジャーは、べンゲルからプレミアリーグでのデビュー戦を言い渡される。2004/05シーズンの開幕戦、相手はエバートン。スペイン出身のファブレガスは、アーセナルの最年少選手としてそのデビュー戦を飾ったが、その時点で既に彼はアーセナルの拠点ハイベリーでいくつかの記録を樹立していた。リーグカップで同点に終わったロゼラム戦に、わずか16歳177日でスタメン出場。ガナーズの最年少トップチーム試合出場選手となる。その35日後のウルブス戦ではアーセナルの最年少得点記録を樹立した。

ファブレガスの活躍はまだまだ続く。同シーズン後半にはチャンピオンズリーグでアーセナルが引き分けたセルタ・デ・ヴィーゴ戦に出場。アーセナル所属の大陸クラブ世界一決定戦最年少出場選手となり、続いてヨーロッパ最年少得点選手という新たな記録も残した。

巨人の闊歩
10代らしくはにかみを含んだそのルックスや、明らかに成長途中だと感じさせる体格に、ファブレガスの実力をみくびったとしても致し方ない。だが、ピッチに上がった時の独創的なミッドフィルダーを一見すれば、彼のサッカープレーヤーとしての完成度は否定できないだろう。稀にみる天性の才能で相手の動きを察知し、パス出しは正確で失敗もほとんどない。細身の体格をうまく利用して巧みなサイドステップで絶妙なタックルさえもかわす。

そこそこのスピードにも恵まれ、スキをみつけては自らゴールも狙って行く。「例えば軸足である左足の動きや、空中戦での実力など、自分のサッカーにはまだ成長の余地がある。幸いにも僕はまだ若いから、万事うまくいけばこれから先まだまだスキルを磨く時間がある」と本人も語っている。

昨年6月、ファブレガスはスペイン代表メンバーとしてFIFAワールドユース選手権オランダ大会に出場した。残念ながら、彼の懸命の努力にも前大会王者は準々決勝でアルゼンチン代表に敗退。驚異のティーンエイジャー、リオネル・メッシに先導され、アルゼンチン代表が優勝の栄冠に輝いた。

しかしながら、2005年はファブレガスにとってこれ以上申し分のないシーズンとなった。スペイン代表のルイス・アラゴネス監督から、2006年ドイツ大会の代表入りが検討されている選手を集めてのインフォーマルな親睦会へも招待された。今年3月には、コートジボワールとの国際親善試合に代表デビューを遂げ、彼のワールドカップ出場の可能性はさらに強固なものとなった。メディアの注目が高まり代表入りへの期待が大きく膨らむ最中、ファブレガスは厳しい局面でも普段以上の実力を発揮。冷静で沈着した態度で中盤での役割をまっとうし、いつの間にか1938年アンヘル・ズビエタに次ぐ史上2番目に若いスペイン代表メンバー誕生への道を着実に歩んできている。

「人生で最高に幸せな瞬間」と試合後のインタビューで答えるファブレガス。「監督とファンからたくさんのサポートを受け、いいプレーができた。緊張に満ちた、ちょっと尋常じゃない1週間だったよ。落ち着いて現実を見つめて、冷静な判断をもって物事に取り組みたい。自分を取り囲む環境すべてが急進展している。若干18歳の僕にとってはあまりにも物事が急速に進み過ぎているかもしれない」と付け加え、年齢以上の落ち着きを示して見せた。

最近行われたチャンピオンズリーグでのレアル・マドリード戦とユベントス戦では巧妙な好プレーの数々を披露した。多くの熱狂的なファンを虜にし、すでにサッカー選手としての成功をも手にしている。陶然のことながら、数々のトップクラブがファブレガスに羨望のまなざしを送っているものの、差し当たって彼はアーセナルで目標達成に集中するつもりだ。アラゴネス監督の注意を引くことができたのも、所属クラブのアーセナルあってのことなのだから。

素晴らしいシーズンに裏付けられた自信に溢れるファブレガス。用心深い彼のこと、今夏は予定を空け、スーツケースを手元に置きつつ、いつでも祖国スペインの代表召集を受けられるよう備えていることだろう。代表入りが果たせれば、彼のバルセロナユース時代の朋友、またライバルでもあるメッシ率いるアルゼンチンへの雪辱を晴らすチャンスがくるかもしれない。

ヴァロン ベーラミ (SUI)
スイスのセレブ情報誌『シュバイツァー・イラストリエルテ』は最近、国際舞台に躍り出たヴァロン・ベーラミのことを、「我らのデビッド・ベッカム」と評した。実際、多くの点で、この評価に異論を唱えるのは難しいだろう。
この若きスイスのミッドフィールダーと、イングランドの名立たるキャプテンの間には、確かに、表面的にも似たところがたくさんある。ベーラミもベッカムも、奇抜なヘアスタイルを好み、家族に捧げたタトゥーで知られ、そしてスポーツカーをこよなく愛す。ただし、ベーラミの現在の愛車、BMW X5とポルシェは、絶え間なく車を買い換えているベッカムに比べれば、控えめだと言えるかもしれない。

2人は、ピッチでの姿にも、たくさんの共通点がある。強力なシュート力、右ウィング突破にかける情熱などだ。ベッカムは、より中心的なポジションに入ってゲームを変えることができる一方で、ベーラミは、攻撃的右バックとしても起用できる。

人目を引くヘアスタイルと車はともかくとして、ベーラミがベッカムに似ている点を挙げるとすれば、自分の仕事に対して、謙虚に、そして真剣に取り組む姿勢だ。ベッカムをはじめ、今日のサッカー界で確固とした地位を築いている選手の多くは、その生い立ちゆえにバランス感覚があるとされている。ベーラミの場合、生い立ちは確実に重要な要因だ。

1985年4月19日、コソブスカ・ミトロヴィツァのコソボ市北部で生まれたベーラミは、わずか4歳にして、家族とともに生まれ故郷を去らなければならなかった。コソボ系アルバニア人に対する差別が悪化し、地域がゆっくりと内戦に向かっていたからだ。

両親と姉の4人家族は、スイス南部のイタリア語圏に移り住み、すぐに地域社会に溶け込んだ。しかし、スイスの移民法は制限が厳しく、ベーラミ一家は3回にわたって、コソボに強制送還されるかもしれないという危険な状況に陥った。

父親は優れたサッカー選手で、スイスの下部リーグクラブのディフェンスとしてプレーした。しかし、幼い頃のベーラミは、むしろ陸上競技で才能を発揮し、クロスカントリーの地域タイトルを4回獲得している。

が、13歳になる頃までには、純粋に走ることに魅力を感じなくなり、以後はサッカーに専念。この時すでにベーラミは、スポーツを専門とする学校に通っており、毎朝6時に家を出る生活をしていた。

とはいえ、ベーラミにとって、サッカーはちょっとした気晴らしにすぎなかった。2000年、スイス1部リーグのクラブ、ルガノが彼を獲得したが、それでもなお、このスポーツを自身の生涯の仕事にしようという気持ちはなかった。

ルガノに入って、トップチームへの昇進街道を足早に上り詰めると、ベーラミ自身もプロとしてやっていくことを意識するようになった。2002年、クラブが破産したのを受け、初めて外国へ移籍。スイスから南への旅は、そう遠くないイタリアのジェノアが行き先だった。そして、1年以内にまた移籍となる。今度は、セリエBのベローナだった。ベローナのマッシモ・フィッカデンティ監督は、イタリアの指揮官にしては珍しく、選手に自由に走り回ることを許した。このスタイルはベーラミには理想的で、その多才ぶりに、すぐにセリエAからの関心が寄せられるようになった。

2005年夏、ベーラミの獲得レースを勝ち抜いたのはラツィオだった。ベーラミは、このステップアップにも難なく適応し、驚くほどの速度でトップチームに入り込む。2年前にスイス国籍を得て、すでにスイスチームではU17、U18、U19、U21に参加。そして今や、第2の母国にとって明らかな代表候補選手となった。

国際試合のデビュー戦では、自分を印象付けるチャンスはほとんど与えられなかった。スイスのコビ・クーン監督は、ワールドカップ予選中、2005年10月にホームで行われたフランス戦の最後の数分しか、ベーラミを起用しなかったためだ。しかし、その1ヵ月後に訪れた次のチャンスを、ベーラミは逃さなかった。やはりホームで行われたトルコ戦、ベンチから飛び出した3分後にゴールを決め、スイスはこれで2-0として、プレーオフに勝利したのだ。

ワールドカップ本大会で、ベーラミがさらなる強国を相手に驚きの活躍を続けるなら、ベッカムと比較されることも、もっと多くなることだろう。ベーラミ自身、ベッカムの大ファンだと公言しており、こうした比較を気にすることはなさそうだ。「ベッカムのプレースタイルが好きなんだ」と昨年10月に行われた新聞のインタビューでも語っている。ベーラミが示した敬意に対して、この夏の大会期間中、ベッカムが礼を返す機会も、もしかするとあるかもしれない。

ルーカス ポドルスキ (GER)
ドイツを熱狂させるポドルスキ
ほかの選手同様、U-19のストライカー、ルーカス・ポドルスキが、クラブのユースチームからトップチーム入りを目指そうと努力を重ねていたのは、2年ほど前のことだ。現在ポドルスキは20歳。ドイツサッカー史上、異例の速さで出世街道をひた走る彼は、いまやアディダスのデザイナーコレクションのスポーツウェアにも彼の名前がしっかりデザインされ、トップスターの仲間入りを果たそうとしている。
2006年FIFAワールドカップ™の開催国は地元のドイツ。若きポドロスキの肩には人々の大きな期待が重くのしかかっているのも事実だ。彼の前監督であるフーブ・ステフェンスは、「ポドルスキは、若き頃のヨハン・クライフ、ライアン・ギグスあるいはウェイン・ルーニーだ」と評する。

18歳のポドルスキは、まだFCケルンのユースメンバーだった。ブンデスリーガ1部リーグ降格の危機にさらされていたトップチームを、少ない予算の中で立て直しを図ろうとしていたマルセル・コラー監督は、クラブのユースチームの名簿から偶然180cm、81kgの大型ストライカーを見つけた。ポドルスキはトップチームとの練習に参加し、その後まもなくトップチームのメンバーとしてデビュー。最近までケルンの試合をスタジアムのスタンドで観戦していた彼だったが、瞬く間にその名がスタジアム中に響くことになった。

まるで流星のごとく鮮やかなポドルスキの出世劇は、2003年11月22日のデビュー戦に遡るが、この若き新星はまだまだ発展途上にあり、日の出の勢いはとどまるところを知らない。2004年春、ケルンは2部リーグへ降格したが、ポドルスキ自身は、トップチームでの最初のシーズン19試合で10得点という輝かしい成績を残し、ブンデスリーガ43年の歴史において歴代18歳プレーヤーの最高得点記録を打ち立てた。

ケルン出身のポドルスキは、クラブの2部降格後もケルンに残留することを選んだ。最近のインタビューでは、「いろいろ学ぶにはいい環境だった」と、彼はブンデスリーガ2部リーグでの最初のシーズンを振り返る。彼が挙げたシーズン通算24得点は、たった1シーズンで1部リーグ復帰を達成したケルンの大きな原動力となった。そして、ポドルスキは1部リーグ復活の2004/05シーズンの開幕を待つことなく、ドイツ代表チーム入りを果たした。2部リーグ所属選手の代表入りは、1975年以来初めてのことである。2004年6月6日のハンガリー戦で、試合終盤に交代選手として起用され、ルディ・フェラー監督率いるドイツ代表のメンバーとしてデビューを飾った。

ファンの間で「ポルディー王子」と親しまれているポドルスキは、ユーロ2004でも代表メンバーに選ばれ、欧州トップレベルの洗礼を受けることになる。現在までに国際大会の出場経験は15試合、うち7得点挙げている。

この「ポルディッシモ(ポドルスキの愛称)」は、FCケルンとの契約が2007年まで残っているものの、ケルンの次に好意を寄せているバルセロナへの移籍希望も事あるごとに公言してきた。だが、ヨーロッパのスカウトマンたちは、常にポドルスキを取り巻く情勢に目を光らせ、中でもドイツ国内でのライバル、バイエルンは一際ポドルスキに興味を示している。

バイエルンの監督フェリックス・マガトは、若きポドルスキに惜しみない称賛を送る。「彼は、2006年ドイツ大会において、ユーロ2004でのイングランドのウェイン・ルーニーと同じくらいの衝撃を世界に与えることになるだろう。ルーニーの方がより強靭でパワフルだが、一方のポドルスキは洗練さでルーニーより優れている。彼のプレーを見て、彼がわずか20歳だなんて誰も思わないだろう。まだ若いのに、ベテランの狡猾ささえ感じられるのだから」。

人気急上昇中のポドルスキだが、その人気の秘密はサッカー選手としての才能だけでない。ポドルスキは、大衆が求めていた新しいヒーローとしてメディアにもよく登場し、ちやほやされることを楽しんでいるかのようだ。「ルーカスは、無意識に機転の効いたコメントを言って応対しているだけだよ」と話すのは、彼のエージェントを務めるコン・シュラム氏。「彼は昔からちっとも変わっていないよ」。

人々の中には、そんなタレントのようなポドルスキが鼻につくと感じる人もいるようだが、言い換えればそれほどキャラクターが際立っているということでもある。そんなタレント性とルディ・フェラーのような身のこなしを持ち合わせる彼は、デビッド・ベッカムに勝るとも劣らないマーケティングに必要不可欠な存在にもなっている。既にポドルスキは、ハビエル・サビオラ、アリエン・ロッベン、アレサンドロ・デルピエロ、ダビド・トレゼゲと並び、アディダスが展開する新しいサッカーシューズのプロモーションに参加している唯一のドイツ人サッカー選手であり、彼のイニシャルとFCケルンのロゴをあしらったLP-10コレクションと呼ばれる新作シューズを発表している。さらに、ポドルスキはルーニーやロナウジーニョとともにコンピュータゲームのパッケージ写真にまで登場している。

だが、驚くべきことに当の本人の姿勢はまったく変わらない。地に足のついたポドルスキは「自分はまだまだ未熟者だ」と、冷静に自己評価を下す。「代表でプレーする時は、オリバー・カーンやミヒャエル・バラックのような選手をしっかり見て勉強している。まだまだ彼らから学ぶことがたくさんあるからね」。エスカレートするメディア攻撃に時々押し潰されそうになるものの、家族とガールフレンドのモニカが何より心の安らぎを与えてくれる存在だと話す。ポドルスキとその家族がポーランドのグライビッツからドイツに移住したのは、彼が2歳の時のこと。「練習から帰宅すると、必ずモニカはテーブルに何か用意しておいてくれるんだ。たいていはポーランド料理。まさにお袋の味かな」とポドルスキは笑う。

アルテム ミレフスキー (UKR)
パワーと優雅さ。この2つの要因を兼ね備えたアルテム・ミレフスキーは、スウェーデンのズラタン・イブラヒモビッチなどとは全く異なるスタイルを取っている。
190センチという体格ながら、スピードのある攻撃的ミッドフィルダーのミレフスキーは、21歳にして、ディナモ・キエフのトップチームに不可欠な存在となっている。 ミンスクのスメナ・アカデミー出身の彼は、2000年のUEFA U-16欧州選手権のベラルーシの予選試合で重要な役割を果たしたが、その後ウクライナ国籍を取得した。

完璧なボールコントロールテクニックと広い視野を持つミレフスキーは、ストライカーも務めることができる。 実際2005年FIFAワールドユース・オランダ大会では、同胞のオレクサンデル・アリエフと2トップを務め、2人で素晴らしい活躍を見せた。 しかし、A代表での出場経験はまだないため、ブロヒン監督率いるウクライナ代表ではダークホース的な存在としてチームに貢献することになるだろう。

ルカ モドリッチ (CRO)
クロアチアを盛り立てるモドリッチ
ズラトコ・クラニチャル監督率いるクロアチア代表チームが、アルゼンチンとの親善試合に3-2で勝利した3月1日、地元のある新聞には「頼りがいのある男たち」という見出しが飾られた。
南米の強豪を打ち負かし、FIFAワールドカップのグループFにてブラジル、日本、オーストラリアと組み分けられたクロアチア代表への信頼が高まったのは言うまでもない。地元の新聞は「頼りがいのある男たち」という見出しをもって代表チームを称賛し、特に国際的デビューを果たした若きミッドフィルダー、ルカ・モドリッチのジュネーブで行われたこの試合での活躍ぶりを称えた。

ディナモ・ザグレブのスターの卵は、負傷中のロベルト・コバチに代わって代表チームの一員として試合に出場し、ミッドフィルダーのニコ・クラニチャルとニコ・コバチとのそつのない連携プレーで、クラニチャル監督の信頼を裏切らない活躍を見せた。まさに、モドリッチの活躍は、チームが試合に勝利しただけではなく「また一人力強いプレーヤーを手に入れた」ことをクラニチャル監督に印象づけたのである。

「あらゆるレベルで優秀」
FIFAworldcup.comとのインタビューでクラニチャル監督は、「ルカはU-17、U-19、U-21で代表入りし、それぞれのレベルで優れた活躍をしてきた。その才能に注目し、またロベルト・コバチが負傷していたこともあって、アルゼンチン戦にルカを招集してみた」とモドリッチの活躍を称賛している。

「ルカにとっては大変な試合だったと思う。デビュー戦だったので精神的に消耗したみたいだしね。しかし、試合にうまく入り込んで見事な活躍をし、中盤でニコ・クラニチャルやニコ・コバチといい連携プレーを見せてくれた。彼にはとても満足している。才能に恵まれ、存在感が強く、組織的なプレーができる資質を備えている。あの試合ではルカを当てにできるかどうかを見てみることも重要だった。試合に勝ったのみならず、いい選手を見つけた点で有意義な試合だったね」。

彼がクロアチア代表としてドイツ大会に出場することは、かなり現実味を帯びている。モドリッチにとっては、ディナモ・ザグレブで初めて全シーズン出場し、クロアチアリーグでの優勝を果たしたのに引き続き、忘れられない12カ月間となることだろう。

隣国ボスニア・ヘルツェゴビナのズリニェスキでスタートを切った弱冠20歳の彼は、2004/05シーズン半ばでインテル・ザプレシツからディナモに移籍したが、移籍してからは夏のオフシーズン前に4試合に出場するだけだった。

ゴールへの嗅覚
だが、8月以来、モドリッチはディナモの大黒柱として活躍し、5月6日、オシエクを打ち負かしてクロアチアリーグの優勝を果たした。彼はミッドフィールドでの質の高いプレーに加え、4試合すべてに得点を入れるという離れ業までみせた。

ゴールした7得点のうち、大変重要な意味を持つものもあった。彼のおかげで、ディナモはシーズン後半の2月12日、前回優勝のハイドゥク・スプリトを打ち負かすという幸先の良いスタートを飾っただけでなく、4月29日には、ライバルのリエカとの試合で2-2と引き分け、ディナモを優勝へ近づけた。

リーグ優勝を果たした数週間後、事態はさらに良い方向へ向かった。親善試合での活躍で代表選出に王手をかけ、国際的レベルでの輝かしい未来がモドリッチをもうすぐそこで待ち受けている。また、クラニチャル監督も彼がさらに成長すると確信している。「彼は力強い存在感と優れた協調性を持つ、才能豊かな選手である」と監督は述べている。クロアチア国民の目には優勝という二文字がちらついているはずだ。それはモドリッチの目にも同じことだろう。

ホセ モンティエル (PAR)
パラグアイのニューウエーブ、モンティエル
パラグアイは、年々確実に実力を伸ばし、南米のサッカー大国を脅かす存在になってきた。綿密な準備で成功を収めてきたパラグアイは、新しいバックボーンを率いる若手に自国の運命を託す。
「アルビロハ(パラグアイの代表)」の次なる挑戦は2006年ドイツ大会。彼らの方針が正しいことを証明するチャンスだ。ホセ・ルイス・チラベルト、セルソ・アジャラ、カタリノ・リバロラ、エスタニスラオ・ストゥルウェイ、ホルヘ・カンポスなどの有力選手が引退したが、カルロス・ガマラ、デニス・カニサ、ロベルト・アクニャ、ホセ・カルドソらベテラン勢は健在だ。さらにフスト・ビジャル、カルロス・パレデス、ロケ・サンタクルス、ネルソン・バルデスなどの若手たちがをチームを活気付ける。

パラグアイのあふれる才能はこれでは終わらない。今この国で最も注目を浴びる17歳のホセ・アルヌルフォ・モンティエルをはじめとし、さらに若いプレーヤー達が台頭してきた。

目を見張る成長
「モンティ」の愛称で親しまれるモンティエルは、1988年3月19日イタグアに生まれた。4人兄弟の末っ子である彼は、イタグアのクラブ・オリンピックでフットボールの世界に足を踏み入れる。パラグアイで歴史、人気ともにトップを誇るクラブ・オリンピアのスカウトが、偶然彼の比類なき才能を発見し、すぐに契約に持ち込んだ。テクニックに長けたこのセントラル・ミッドフィルダーは、黄金の右脚と試合への的確なビジョンを持ち合わせ、2004年2月12日に対ソル・アメリカ戦でデビューを飾ると、ぐんぐんスターダムをのし上がってきた。

「怖くはなかったよ。すべて自然な流れだった。レギュラーのユニフォームを身に付けるプレッシャーは感じなかったし、今でも感じてはいない」。16歳のまだあどけない少年は、驚くほど冷静に語った。オリンピアでレギュラーの座を確実にしたモンティエルは、2004年パラグアイで開催された南米U-15選手権の代表に選ばれる。

しかし、大会3ヵ月前に頚骨を骨折し、出場が危ぶまれる。7週間のリハビリで9月11日の開幕に間に合うかどうかは微妙だとされた。だが、すべての予想に反して、モンティは、最初の試合に出場。1試合目は17分、2試合目には42分プレーし、スタメンの11人に名を連ねた。チームのスターとして輝かしい活躍をしたモンティは、PK戦で冷静にシュートを決め、コロンビアを破って優勝を勝ち取った。

モンティエルがパラグアイ代表として2度目にユニフォームを着たのは、翌年の4月。2005年FIFA U-17世界選手権ペルー大会の予選だった。またもやモンティエルは、修練された効果的なプレーで目を見張る活躍を見せ、チームに貢献する3ゴールを決める。このうちの1つは、グループ戦の最終試合、対ブラジル戦だった。だが、ゴールは決めたたものの、チームは予選通過を逃すという残念な結果に終わった。彼は、「これで皆が精神的に成長できることを願っている。世界選手権を逃したのはパラグアイにとって、とても痛かったよ」と述べている。

最初のゴール
オリンピアに戻って活躍を続けたモンティエルは、シニア代表チームへの道を歩み始めた。5月4日、セロ・ポルテーニョとの一騎打ちの末、初のフェアプレー賞を獲得。中盤での激しい戦いでは、モンティエルの誠実で冷静なプレーが光り、ますます評価を高めていく。わずか2週間後、リベルタ戦で初のゴールを挙げる。「母の日に決めたこのゴールは彼女に捧げたい。母は、いつも自分をサポートしてくれたし、誰よりも愛している」。モンティエルは試合後にそう語った。

このような素晴らしい活躍をヨーロッパのクラブが放っておくはずがない。スイスのバーゼルがまず名乗り出たが、契約には至らなかった。この後、イタリアのクラブ、ウディネーゼがすばやく興味を示し、2006年の夏に入団するよう契約を交わした。1月のヴェネツィアとの親善試合でゴールを決め、3-0の勝利に貢献したモンティエルを見て、チームの経営陣は今すぐプレーさせたいと地団駄を踏んだ。

2006年ドイツ大会の代表として彼が選ばれるのは確実だろう。パラグアイの監督、アニバル・ルイスは、去年の地区予選で、最後の2試合にモンティエルを起用した。このチャンス到来には、誰よりもモンティエル自身が驚いたようだ。「出場できるとは思っていなかった。でもその時が来たら、期待に応えられるように全力を出すしかないと感じたよ。やってやろうじゃないか」と吉報が届いた後に意気込んだ。

昨年10月8日に、代表戦で公式デビューを果たす。この対ベネズエラ戦に1-0で勝利したパラグアイは、ドイツ大会への切符を手に入れた。モンティエルのプレー時間はわずか13分だったが、4日後に控えた対コロンビア戦では先発出場を確実にする見事なプレーを披露した。1-0でこの試合には敗れたものの、モンティは、ファンからもプレスからも絶賛された。「子供の頃からの夢がかなった。周りからの賞賛をどう思うかって?もちろん、やる気に拍車がかかるね。後は自分がこれまでの倍以上努力して、その期待を裏切らないようにすることだ。新たな出発だね」。試合後、彼は謙虚に語った。

代表チームの監督ルイスは、彼の開花した才能に熱いエールを送っている。「サッカーでは、若手が大舞台で活躍するのは稀なんだ。技術はあるが、1試合でヒーローになることは珍しい。このようなスターには時間とサポートが必要だ。アルゼンチン、ウルグアイ、スペイン、イングランド、イタリアの名選手たちも同じだ。そしてパラグアイだって そうやって時間をかけて花開いてきたんだ」。

コロンビア戦の前夜、モンティエルは試合に対する姿勢を明確に示した。パラグアイはすでに予選通過を決めているのだから、チームは少々手を抜いてもいいのではないかと尋ねられた時、彼は「僕はワールドカップのためにプレーする。だから全力を尽くす」と断言した。モンティエルの答えに反対する者はいない。そこには本物のプロに成長した若者の姿があるのだ。

セルヒオ ラモス (ESP)
ラモス、夢の実現まであと一歩
スペインが2002年のワールドカップ韓国・日本大会を戦っている間、当時16歳だったスペイン出身のセルヒオ・ラモスは、遠くセビリアの自宅から声援を送り、有名な赤のユニフォームを自分もまた身に付けられる日を待ち望んでいた。4年経った今、この青年の夢はまさに実現しようとしている。
  クラブにおいても国際的な水準においても、ラモスはまさに流星のように成長を遂げてきた。彼は2004年2月のスペインリーグでセビリア選手としてデビューを飾り、さらにそのシーズン最高峰の試合に6回もの出場を果たした。翌年、このアンダルシアのクラブから31回の試合に登場。その活躍ぶりに強い印象を受けたレアル・マドリードは2,700万ユーロという手痛い出費と引き換えに、この才能あるディフェンダーをベルナベウへ連れ帰った。

FIFAworldcup.comとの単独インタビューにおいて、ラモスは「僕の年齢でこれだけのことを成し遂げた人はごくわずかだ」と語った。 「確かに今現在で履歴書に書けるのはU-19ヨーロッパ選手権だけだけど、その点はすぐに何とかするつもりだ」と彼は笑顔で付け加えた。

   若いセルヒオにとって、背番号19というのは幸先が良い数字のようだ。彼が国際大会で初めて白星を挙げたのはU-19UEFAヨーロッパ選手権スイス大会でのこと。彼は大いに活躍してスペインは決勝でトルコを下した。ついで2005年3月30日、19歳の誕生日にはスペイン代表チームへのデビューをまさに背番号19番のユニフォームを着て果たしたのだった。それはベオグラードでのFIFAワールドカップ™地区予選、セルビア・モンテネグロとの決定的な試合でのことだった。

「ルイス・アラゴネス監督にチャンスを与えられたときは天にも舞い上がるような気分だった。もちろん、背番号は誕生日に合わせて選んだんだ。今から思い起こしても、あの日は僕にとって本当に特別な日だった」と語った。その日の感動はまだ鮮明に心に刻まれているようだ。

  アラゴネスが12月、ドイツ大会を戦うスペイン代表メンバーの候補33人の選手を集めたとき、ラモスもまたその中にいた。「いわゆるチーム作りを目的に、他の候補選手たちと会って充実した時間を過ごす良い機会だった。一緒に昼食をとった後、"ワールドカップという重大な試練が近づいた今、厳しい訓練が待ち受けている"と監督は強調したんだ。そこにいた33人の中から最終的な代表メンバーが選ばれるんだよ」 。

   セルヒオ・ラモスはFIFAワールドカップ™初出場を弱冠20歳で果たせるかもしれない。この生粋のアンダルシア人選手にとっては大きな夢だ。ラモスは、自身のモチベーションを高めるためには監督からのアドバイスももちろん必要だが、ドイツ大会への出場が決定するまでの試合の一つひとつで、あるいはトレーニングセッションで、ただひたすら懸命に努力を続けるには自身の熱望だけで十分だという。「ワールドカップへの出場は自分自身で設定した目標の一つだし、どんなサッカー選手にとっても意味深いものだ。チームと共に成功を手に入れるため、そしてワールドカップに出場するために毎日奮闘していく」と誓った。

  ラモスは、いつも守備の中心でミッドフィルダーやライトバックとしてプレーしてきたが、どのポジションを最も得意としているのだろう?「その質問は何度もされてきたけれど、一度もはっきり返事をしたことがない。それは、あらゆる場面で万能性を発揮できなければ一流の選手とは言えないと信じているからだ。監督が先発で僕を出場させてくれる限り、ポジションはどこであってもあまり気にしない」。

とは言っても、アラゴネスがラモスを右サイドで使おうとしていることは既に承知しているようだ。そうなれば、レアル・マドリードのチームメート、ミチェル・サルガドと先発の座をまともに争うことになる。両者ともFIFAワールドカップ™には初出場となるわけだが、若さをとるか経験をとるかのこの選択は非常に興味深い。

「若い選手の存在は、チームに新風をもたらす意味でとても重要だ。同時に、新しい才能とベテランのいいバランスも欠かせないと僕は信じている。代表の経験が豊かなベテラン、ラウル、(カルレス・)プジョル、(フェルナンド・)モリエンテスらはきっとフィールドにおいてもロッカールームにおいても重要な役割を果たすだろうからね」とラモスは言う。

一方で、若き大物たちもそこにはいる。彗星のごとくランクアップを果たしたディフェンダーのラモスも、ユースチーム時代からの長いつきあいの仲間たちを忘れてはいない。「代表入りの有力候補は、たくさんいます。代表選手の決定は奥が深く、複雑な過程であることは承知の上ですが、アーセナルのセスク・ファブレガスやバルセロナのアンドレス・イニエスタといった選手は成績を上げてきているし、選ばれるに値する力がきっとあります」と自らの推薦を直接、監督に報告したりもする。

  スペインの秘められた可能性を固く信じるラモス。抽選会でウクライナ、チュニジア、サウジアラビアを対戦相手とする比較的有利なグループHに入ったこともあり、ドイツでの本大会で大活躍するチャンスも大いにあると期待を膨らませる。その一方、あまり舞い上がりすぎないよう自分をコントロールすることも忘れてはいない。

  「一見、楽なグループだという印象はあっても、どのチームも侮ってはいけない」と彼は言う。「それぞれに実力があるからこそ本大会に出場を果たしているのだから。他の大国のような評判はないとしても、みな強敵なのだということは十分に承知している。だからこそ、このグループを勝ち抜くために持てる力はすべて出し切りたい。ウクライナはこのグループで鍵となるチームだろう。強力なメンバーを集結させて挑んでくるに違いない。そう簡単には勝たせてはくれないと思う」。 

  スペインのFIFAワールドカップ™史上最高の成績は第4位。それは1950年のブラジル大会にまで遡る。以来、準々決勝の段階もしくはそれ以前で、その記録を打ち破ろうと挑戦し続けてきた。今回の大会では果たしてどこまで勝ち上がれるだろう?「願わくば決勝までいきたい」とラモスは言う。

「今年のスペインチームは強豪だ。良い結果を出すワールドカップになることを願っている。少なくとも、呪われた準々決勝の歴史は打ち破りたい」。思い望むことは何でも実現してきたラモス。この願いもきっと叶えることだろう。

マルセル ヤンセン (GER)
2シーズン、ブンデスリーガでプレーしただけで20才のディフェンダー、マルセル・ヤンセンはドイツ代表チームの左サイドバックのポジションにつくこととなった。2005年、ボルシア・メンヘングラッドバッハのディフェンダーは、FIFAワールドユース選手権の代表チームでスターとなった。その後スロバキアとの親善試合でA代表デビューを果たした。

まだ、2006年のワールドカップでは出場機会はないが、今後飛躍が期待できる選手である。

クリスチアーノ ロナウド (POR)
もう一人のロナウドの台頭
ディフェンダーになったつもりで、クリスチアーノ・ロナウドと一対一の対決をするのを想像してほしい。マンチェスター・ユナイテッドおよびポルトガルのウィンガーのロナウドが大きなスライドでドリブルしながら突進してくる。そして、目の前ですばやく(あなたはもはや目で追えないかもしれないが)足元のボールを2回、3 回、4回とまたぐ。あなたはきっと慌てふためき、尻込みし、集中力を取り戻そうと必死になるに違いない。ロナウドはまさに今、注目すべき選手だ。ただし彼を目で追うことができたらの話だが…。
もしも、この仮定の話が現実だとしたら、ロナウドはこの2、3年、世界のトップDF陣を悩ませ続けているので、あなたの仲間はたくさんいることになる。

2003年8月、マンチェスター・ユナイテッドは1224万ポンド(約22億円)という破格の移籍金をスポルティング・リスボンに払ってロナウドを獲得し、当時18歳であったこの若者と5年間の契約を結んだ。デイビッド・ベッカムをレアル・マドリードに放出したばかりのマンチェスター・ユナイテッドは、このイングランド代表キャプテンが抜けた穴を埋める右サイドに、新たなスターを必要としていた。

マンチェスター・ユナイテッドがこの俊足のウィンガーに初めて注目したのは、アメリカで行われた親善試合だ。その夜ユナイテッドは、ロナウドを擁するスポルティング・リスボンと対戦し、まさに彼らが求めている選手を目の当たりにした。試合前、ユナイテッドの選手たちは、スポルティングの選手名簿の中にロナウドの名を見つけたとき、あのロナウドかと恐れを抱いたかもしれない。しかし、こちらのロナウドはマデイラ諸島出身で、元アメリカ大統領のロナルド・レーガンにちなんでその名がつけられた青年だと誰かが説明していたら、ユナイテッドの選手たちは不安にならずに済んだだろう。

1-3で試合に敗れたものの、ユナイテッドは相手を出し抜くスピードとドリブルスキルの持ち主、ロナウドに魅了された。ロナウドは1997年にナシオナルからスポルティングに引き抜かれ、2002/03年のシーズンに一軍入りしていた。ユナイテッドの選手たちは、イングランドへの帰途に着く飛行機の中でロナウドのことをひっきりなしに語り、アレックス・ファーガソン監督に即、ロナウドと契約するように直訴した。しかし、選手たちには知らされていなかったが、監督のファーガソンは実はもう数カ月前からスポルティングの輝く真珠、ロナウドに注目していた。他のクラブも興味を示し始めたため、ファーガソンは「これまでに見た中で最もわくわくさせる若手選手」と称し、ロナウドの獲得に動いた。

記録的な移籍金で契約を結んだロナウドは、ベッカムが着けていた7番のシャツを渡された。偶然にも7番はロナウドのヒーロー、ルイス・フィーゴの番号でもある。ユナイテッド移籍一週間後、ロナウドはポルトガルでフル代表デビューを果たし、自身のヒーロー、フィーゴとともにカザフスタン戦に出場した。

ユナイテッドでのデビュー戦となったボルトン・ワンダラーズ戦で、ロナウドのプレーは絶賛された。サー・アレックスは新契約したロナウドがベッカムの穴を埋めたのを喜び、「ニューヒーローが出現したようだ」とファンに宣言した。しかし、ユナイテッドでのロナウドの初シーズンは順風満帆ではなかった。デビュー直後は期待通りの活躍を見せたものの、ボールを何回もまたぐドリブルをやり過ぎ、肝心なところでのクロスで不可解な失敗をするなど、批判を浴びるようになった。

ロナウドは自らがいつも強調しているように学習能力が早く、自分の欠点を修正するために懸命に努力した。一方、ファーガソンは巨額を投資したロナウドをかばい、過去2年間、冬季中はロナウドをポルトガルで過ごさせた。ファーガソンはロナウドの初シーズン中に「彼はまだ18歳なのだから、起用法は慎重に考えなければならない」と説明した。スコットランド人のファーガソン監督のこの賢明な判断は、2004年のFAカップ決勝で結実した。リフレッシュしたロナウドは、カーディフのミレニアム・スタジアムで行われたFAカップ決勝のミルウォール戦でヘディングを決めるなど活躍をし、最優秀選手に選ばれた。レッドデビル(ユナイテッドの愛称)はこの試合を3-0で勝利し、10度目のFAカップタイトルを獲得した。

ロナウドはその好調ぶりをポルトガル代表としてユーロ2004においても発揮した。ギリシャに敗れ、夢の優勝は逃したものの、ポルトガルの決勝戦進出の原動力となった。ロナウドは同年の夏、オリンピックにも出場したが、ポルトガルはアテネではいい成績を残せなかった。

一年後、再びユナイテッドはFAカップ決勝に進出したが、PK戦でアーセナルに敗れ優勝をさらわれた。しかしユナイテッドは、過去1年で遂げたロナウドの進歩を高く評価し、好条件の契約更改をオファーした。そして2005年の夏、ロナウドは2010年までの契約延長に同意した。

2年連続でFIFA最優秀選手賞の最終選考に残ったロナウドは、世界中のファンからの注目を集め、2005年にFIFPro(国際プロサッカー選手協会連盟)最優秀ヤングプレーヤー賞に選ばれた。しかし2006年FIFAワールドカップ™に向けてのシーズンは、ロナウドにとっては困難な状況でのスタートとなった。父親が重い病に倒れ、9月に行われた地区予選のロシア戦(アウェー)の1日前に他界してしまったのだ。だが、勇敢にも亡き父のためにロナウドはロシア戦に出場し、この試合を0-0で引き分けると、チームは本大会進出を確実にした。後日、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督は、ロナウドの勇敢さを称えて特別の賛辞を呈している。

ロナウドはポルトガルを2006年FIFAワールドカップ™ドイツ大会予選のグループトップに導いた。次はいよいよ自身にとって初の本大会が待ち受けている。この大会は、マデイラ諸島出身のゴールデンボーイが、ブラジルの同名選手より輝き始める時となるかもしれない。だが、このティーンネージャーは浮かれてはいない。「僕にとっての唯一の関心事はベストを尽くし、マンチェスター・ユナイテッドでタイトルを獲得することなんです」と謙虚にコメントを残してしている。

ウェイン ルーニー (ENG)
2006年ワールドカップでは、活躍が期待されているが、期待通りの活躍ができていないが、2010年も注目の選手である。

まだまだ発展途上の神童、ルーニー
出世街道を順調に駆け上がってきたウェイン・ルーニーにとって、「注目プレーヤー」の称号を与えられるには3年遅すぎたと言っても過言ではないだろう。2002年8月17日に彼が少年期を過ごしたエバートンでデビューを飾って以来、現在マンチェスター・ユナイテッドのプレーヤーでイングランド代表のストライカーとして知られるルーニーは常に注目の的である。
2002年夏、エバートンがオーストリアの弱小チームSCブルックを迎え、プレシーズンの親善試合を行った時、彼のプレミアシップでの初ゴールは、実況アナウンサーによって興奮気味にこう伝えられた。「イングランドのポスト、アラン・シアラーと多くの人が信じて疑わないウェイン・ルーニーが、エバートン3つ目のゴールを決めました! 」。だが、シアラーがイングランド代表デビューを果たしたのは21歳のとき。一方のルーニーは20歳の誕生日を昨年10月に祝ったばかりで、既にイングランドのキープレーヤーに成長している。

2002年10月、ルーニーはプレミアリーグで初ゴールを決める。試合終了間際での目を見張る鮮やかな決勝ゴールは、後に2001/02シーズンのチャンピオンに輝くことになるアーセナルの無敗記録を30でストップさせた。そして、人々にルーニーがいる限り、不可能は何もないのだということを知らしめた。ボクサーのようながっしりとした体格を持つルーニーは、相手の守備陣を跳ね返し、次々と記録を破っていった。

2003年2月12日に開催されたオーストリア代表戦では、17歳と111日というイングランド史上最年少で代表デビューを果たした。124年間、誰も破ることのなかったジェームズ・プリンセプの記録を塗り替えたのだ。そして、その7ヵ月後には、ユーロ2004の予選でイングランドが予選突破を決めることになったマケドニアとのアウェイゲームで先制ゴールを挙げ、これはイングランド史上最年少の17歳と317日での代表初ゴールとなった。

彼のうわさは瞬く間にイングランドから世界へと広がった。翌年夏、ポルトガルで開催された本大会では、全世界がルーニーの比類なき才能に気付くことになったのだ。相手サイドに深く切り込むルーニーのスリリングな走りは、相手の守備陣を震え上がらせた。恐れを知らない向こう見ずなプレーで彼は4得点を挙げ、イングランドがスイスとクロアチアを下し、準々決勝進出を果たすのに大きく貢献した。18歳という若さからくる彼のすさまじい勢いは、サッカーの国際舞台など朝飯前のことのようにすら思わせた。

その後、ルーニーは2,700万ユーロという高額な移籍金でエバートンからマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。昨年10月、トルコのフェネルバーチェとの対戦では、デビュー戦を見事なハットトリックで飾った。2005年春にはヤングプレーヤー・オブ・ザ・イヤーに輝き、ルーニーは瞬く間に地元オールドトラフォードにとって欠かせないヒーローとなったばかりでなく、イングランド代表においても不可欠な存在となった。マイケル・オーウェンは最近のインタビューでルーニーついてこう語っている。「敵陣に突進しては、相手の弱点を突く。後方からロングシュートを放つかと思えば、絶妙なパスを送る。ありとあらゆる場面で彼のスキルを見せつけるんだ」。言うなれば、何でも来いの腕前を持つということだろうか。

イングランド代表のトレーニングセッションで行われた新旧対抗戦では、センターディフェンダーとしての能力も抜群だった。練習場では一か八かのゴールを狙って楽しむほどの余裕をみせ、FIFAworldcup.comの取材に応じたイングランドの伝説、ボビー・チャールトン卿は「彼には勝負にかける旺盛な意気込みが感じられ、驚くほどだ」 とルーニーを評した。

10代に別れを告げたルーニーは、今後どこまで成長するのか。ルーニーのマンチェスター・ユナイテッド移籍について語ったアレックス・ファーガソン卿は、ルーニーを「イングランドにとって30年来の最高のヤングプレーヤー」と称賛する。しかし、ピッチの上での彼の才能に疑いの余地はなくとも、性格面で問題がないとは言えない。エバートンでプレーしていた2003/04シーズンでは、ゴール数よりもイエローカードの枚数が上回るという苦い記録もある。イングランド代表の試合においても、過去12ヶ月の間に2度も感情的になる場面があった。

イングランド代表監督のスベン・ゴラン・エリクソンは、昨年11月に行われたスペイン戦で、ハーフタイムを待たずに退場は必至だろうとルーニーをベンチに下げた。彼が2度目の問題行動を起こしたのは、9月に北アイルランドに敗戦を喫したときだ。イエローカードを受けた後、左ウィングに下げられたことを不服に思ったルーニーは、試合後半こそ口を慎んだものの、キャプテンのデビッド・ベッカムとリオ・ファーディナンドに暴言を吐き捨てる始末だった。そして、その同じ9月、ビジャレアル対マンチェスター・ユナイテッド戦で、ルーニーは審判のキム・ミルトン・ニールセンに皮肉たっぷりの拍手を送ったことが原因で退場処分を受けた。彼のプレーに切れがあることに疑いの余地はないが、精神面でまだ成長過程にあることは認めざるをえないだろう。

オールドトラフォードでディレクターを務めるボビー・チャールトン卿は、ここ一年間ルーニーを近くで見守ってきたが、彼が数々の過ちから学び、さらなる活躍をすることを期待している。先週イングランドの国立サッカー博物館で開催された毎年恒例の殿堂授賞祝賀式典の席で、チャールトン卿は「多少血の気の多いルーニーの気性ばかりが取り沙汰されるが、実際には違うんだ」とFIFAworldcup.comに語っている。「彼はこれからめきめき成長していくだろう。彼については、いろんな人がいろんなことを言っているが、レフェリーとの衝突問題にしても、じきに治まるに違いない。彼は頭の切れる青年だし、ピッチでプレーすることをこよなく愛しているから、退場処分ばかり受けてそのキャリアを台無しにしたりはしないだろう。時間が来れば彼も学ぶと思う。ルーニーには驚くほど高いモチベーションがあり、プレーすることをこよなく愛し、勝利への貪欲さも兼ね備えている。こればかりは文句のつけようがないよ」 。

ユーロ2004以降、ルーニーが挙げた10得点のうちイングランド代表戦での得点はわずか1ゴール。この1ゴールは、4-1で敗北を期した8月のデンマークとの親善試合で決めたものだ。しかし、FIFAワールドカップ™決勝トーナメントにおいて、ルーニーが相手チームにとって最大の脅威となることは容易に想像がつくだろう。チャールトン卿は、エリクソン陣営にとってルーニーの存在は重要だと考えている。「彼は偉大なプレーヤーだ。偉大なプレーヤーは否定を許さないんだ」。名だたる名将の1人からそれほどの称賛を得るという事実は、この夏のドイツ大会でルーニーが真に注目すべきプレーヤーであることの力強い証明でもある。

アーロン レノン (ENG)
トッテナムのミッドフィルダー、アーロン・レノンの今夏の予定はFIFAワールドカップに出場するイングランド代表をテレビの前で応援することだった。そんな彼も今では「後で自分のプレーを見ておきたいから」と友人にビデオ録画を頼むことになりそうだ。
本来ならレノンのイングランド代表入りは見出しを独占するほどの大ニュース。しかし、スベン・ゴラン・エリクソン監督は、レノンと共にジレットベストヤングプレーヤーの候補にあげられている16歳のテオ・ウォルコットも招集していることもあり、実際はそれほど取り上げられなかった。スパーズで急成長を遂げているレノンはそんなことも気にせず、ただ素直に代表入りを喜んでいる。それもそのはず、リーズ・ユナイテッドからホワイトハートレーンに降格してから1年も経っていない。レノンは「信じられないことだ。まさかワールドカップに参加できるとは思わなかった」と語る。

2005/06年シーズン、トッテナムで素晴らしい活躍を見せて早々と注目を浴びた。そんな彼は、しばらくは右サイドのミッドフィルダー、ウェイン・ルートリッジの控えとして見習いに専念する覚悟で入団していた。しかし、シーズン開幕戦でルートリッジが足の骨を折ってしまい、レノンがその代理要員として出場。以来、彼の活躍は留まるところを知らない。「与えられたチャンスにはすべて挑戦しなければならないことは早くから理解していた」と本人は言う。

レノンは脅威的なスピード、そして卓越したボールさばきとクロスでしっかりとファンとスパーズの監督マルティン・ヨルの信頼を獲得した。ヨル監督は19歳のレノンを1シーズン目から29試合で起用した。そのほとんどは先発出場だった。

イングランドU-21チームの対オーストリア戦に向けて招集されたが、膝の裏を負傷し、UEFAヨーロッパ選手権プレーオフの対フランス戦を欠場した。その後、体調、調子ともども回復し、無類の独創性を活かしてトッテナムのUEFAカップ進出に貢献した。

ウェイン・ルーニーが中足骨を折った週末、レノンはスパーズ対ボルトン ワンダラーズの激しい試合で見事な決勝点をあげた。これ以上ない代表入りへのアピールとなり、レノン選出を求める周囲の声も高まった。

レノンはその際こう語った。「エリクソン監督があの試合を見ていたことは、チームメートが言っていたので知っていたが、自分はスパーズの勝利だけを考え、誰が見ているかは考えないようにしていた」。実際、エリクソンはその試合にしっかりと目を据えていた。「ここ2ヵ月半はスカウトから良い報告しかなかった。彼は体調は万全であり、それが何より肝心だ」。

レノンはイングランド代表のテレビ観戦に熱心な一ファンから一転、ワールドカップ本大会でどのような活躍ができるかを思い描く立場になった。「子供の頃、1998年のワールドカップでマイケル・オーウェンがアルゼンチン相手にひとりで驚異的なゴールを決めたのを覚えている。自分があれほどの威力を発揮できるとは口が裂けても言えないが、ドイツに行き、途中出場からチームに勝利をもたらすことができれば、正に夢のような話だ」。

リオネル メッシ (ARG)
2006年ワールドカップで鮮烈なワールドカップデビューを果たしたメッシである。

リオネル・メッシは、2010年のワールドカップも注目の選手である。

アルゼンチンはメッシの虜
リオネル・メッシがアルゼンチンに一大旋風を巻き起こし、一躍時の人となったのは、2005年FIFAワールドユース・オランダ大会のときだ。メッシが連発する巧妙なプレーの数々により、U-20アルゼンチン代表は5度目の大会優勝を果たした。この時、メッシは18歳の誕生日を迎えたばかり。だが、この若き素晴らしいミッドフィルダーは、母国に金メダルをもたらしたばかりでなく、得点王としてアディダスゴールデンシュー賞、さらに最優秀選手としてアディダスゴールデンボール賞も同時に獲得した。
「リオネルは既に卓越したプレーヤーだが、先は長いのだから焦らずじっくり構える必要がある。オランダ大会での彼の活躍は実に素晴らしいものだったが、戦術や勝負のカンにさらに磨きをかけるためにも、当面は今と同じ方向性でやっていくべきだ」と、U-20アルゼンチン代表のフランシスコ・フェラーロ監督は語る。地元アルゼンチンでは、熱狂的なサポーターやスポーツ解説者の間に「メッシマニア」と呼ばれる現象も生まれ、すでに若い頃のディエゴ・マラドーナの再来と謳われている。

実際、当のマラドーナ本人も、この若き英雄の披露する素晴らしいプレーに魅了され、個人的に祝福と応援の電話を入れたほどだ。「正直、世界で最も偉大なプレーヤーから褒められるなんて驚きだったけど、とても光栄です。モチベーションが駆り立てられます」と、メッシはFIFAworldcup.comのインタビューに答えた。

並外れた洞察力、瞬発力、そして非の打ちどころのないテクニックを武器にスペースを作り出そうとメッシは、まるで自分の裏庭かのようにピッチの中盤を縦横無尽に駆け回る。相手チームのディフェンスにとっては、常に脅威的な存在だ。卓越したドリブルテクニックと緩急のあるフットワークで最後尾の強靭なディフェンスラインを優雅にすり抜ける彼の天性に、相手チームの守備陣は手も足も出ない。

左足が利き足のメッシは、巧妙な攻撃を組み立てたり、洗練されたパスを出したりするだけでなく、ゴール前での鋭い嗅覚も持ち合わせている。FIFAワールドユース・オランダ大会では6ゴールを叩き出し、生まれながらにして脅威のゴールゲッターであることを世界に知らしめた。なかでも準決勝の対ブラジル戦での先制点は、申し分のない素晴らしいゴールだった。

歴史を塗り替える
メッシが家族とともにアルゼンチンからスペインに移住したのは彼が13歳のとき。当時、経済危機にひっ迫していたアルゼンチンから逃れるためだった。バルセロナに落ち着くと、才能豊かな少年はカンプノウで入団テストに勧誘され、その場で即座にユース監督のカルレス・レシャックの目にとまった。「その場ですぐメッシに飛び付いたよ。実際、本気である意思表示の証として、その場にあったナプキンの裏に彼にFCバルセロナとの契約サインをさせたほど」とレシャック監督は回想する。

しかし、わずか140cmという小柄なメッシは、同じ年頃の子供たちと比べてもあまりに小さく華奢だった。そこで、クラブ自らメッシのために薬物療法による成長ホルモン促進の治療まで引き受けた。それから3年後、アルゼンチン出身のサッカー少年は、若干16歳でスペインの1部リーグにデビューを飾ることになる。2005年5月1日には、大胆にもアルバセテ戦でゴールを決め、カタルーニャの雄を勝利に導く。バルセロナのクラブ史上最年少得点記録を17歳10ヶ月と7日と更新し、歴史を塗り替えた。

スペインサッカー連盟の代表選考役員たちはメッシの将来性に素早く注目し、メッシに彼にとっては第2の祖国となるスペインのユース代表メンバーとしてプレーするチャンスを与えた。だが、彼の祖国アルゼンチンへの忠誠心は強く、アルビセレステの愛称で知られるアルゼンチン代表チームでプレーする夢を抱いていたメッシは丁重にその申し出を断った。

そして、そんなメッシの信条が報われるときがやってくる。2005年FIFAワールドユース・オランダ大会への出場をかけて2004年1月にコロンビアで行われた南米地区予選に、アルゼンチンU-20代表チームのメンバーとして召集されたのだ。そのコロンビアでの地区予選は、南米中のサッカーファンがメッシの驚異的で多彩なテクニックを初めて目にする機会となった。南米屈指の若いタレントが集まる中、彼の実力は抜きん出ていた。ロサリオ生まれの若き新星は、本大会が開催されたオランダでも引き続き無類の才能を披露し、あっという間に大会の話題をさらった。メッシへの関心は日増しに高まり、その注目度の高さは、警戒したバルセロナが契約条件改善と専属契約条項を盛り込んだ契約書を片手にわざわざ大会開催中のオランダまで出向いたほどだった。

素晴らしい通算成績
身長170cm、体重65キロ。通算成績データに引けを取らないほど、メッシは素晴らしい体格に成長した。地区予選では全8試合中6得点を挙げ、これはコロンビアの得点王ウーゴ・ロダジェガに次いで2番目に高い得点数となった。

オランダ大会では、7試合中6得点を挙げた上、2つの見事なアシストを決め、”ティーンエイジャー旋風”を巻き起こした。結果、アルゼンチンの総得点のうちの半分はメッシによる得点で、そのどれもが試合を決める重要なゴールだった。アルゼンチンにとって大会開幕戦となった対米国戦では、メッシは試合開始をベンチで見守った。奇しくもこの試合が大会中、唯一のアルゼンチンの負け試合となったことを考えると、彼の功績はさらに際立ってくるだろう。

ユース代表の成功にメッシは不可欠な存在だった。彼は瞬く間にアルゼンチンの国民的英雄となり、国民の多くがこの類まれな逸材を将来、代表メンバーに起用するようホセ・ペケルマン代表監督に呼びかけた。代表メンバー入りの可能性について触れると、シャイで控えめなミッドフィルダー、メッシは「まだまだ早すぎるよ」と答えた。

彼のU-20代表監督のフェラーロは、この同じ質問に「彼は、今までやってきたことをまだ継続してやっていく必要があると思う。将来、さらに成長するためにも、環境は極めて重要だからね。もちろん、今、彼には家族や我々全員が身近にいて環境はとても恵まれているといえるよ。我々も彼の育成には全力を尽くすつもりだ。でも、もしホセ・ペケルマン監督が彼を代表チームに召集するなら、それはそれで彼にとって素晴らしいことだとは思う。代表レベルがどういうものなのかなど、いろいろ勉強になることは多いだろうからね」 。

世代を代表する一流若手選手の1人として、もし代表メンバー入りを果たしたなら、俄然メディアの注目は高まるだろう。さすがに、彼自身もこうした状況にはまだ慣れていない様子で、常にスポットライトを浴びている状況にどう対応しているかと訊くと、メッシは「できるだけ冷静に対応するよう努力しているけど、やっぱりピッチで思いっきりプレーすることだけに専念したいね」 と答えた。

日本のワールドカップは終わった・・・・
中田~~~~



最後は、そんな言葉を発したかった。



常に、チームや自分を鼓舞し続けた男にとって、
あのような試合は、納得のいくものではなかったのであろう。


確かに、私が見ていても、中田の思いとはうらはらに、最後はみんなの足が止まっていた。





ここにチーム戦の難しさを見た。




中田のくやしさを忘れずに、
4年後は、最高のチームになっていることを期待したい。

なんでもいいから勝ってほしかった
どんな形でもいいから勝ってほしかった。

川口のスーパーセーブは、すごかった。

これは、いける!!!と思ったのは、俺だけでないはずだ!

後は、オーストラリア、クロアチア、ブラジルの状況にかなり左右されるが、日本の決勝進出の望みはある!!


こら~~~~気合いれんか~~~~!!!



決勝トーナメント進出に向かって









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エビちゃんも世界レベル?
こんな記事見つけた。

エビちゃんも世界レベルかな?



「かわいい」日本代表、エビちゃん世界デビュー

 エビちゃん、世界に配信-。「CanCam」のカリスマモデル、蛯原友里(26)がこのほど米通信社のAP通信に打電され、ワシントンポストやビジネスウイークの電子版など、世界中の新聞に掲載された。

 「キュート・イズ・クール(かわいいがカッコいい)」と題し、日本ではかわいいことが流行の最先端をいくと紹介。その代表として、キティちゃんらと並んで、“エビちゃん”の愛称でOLから絶大な人気を誇る蛯原が紹介された。

 インタビューは5月3日、都内のスタジオでCM撮影の合間を縫って行われ、蛯原は「いつも笑顔を忘れないが私のモットー。かわいくないという人がいたら、もっとかわいく見られるように頑張りたいんです」とこたえている。同社によると、500社を超える世界のマスコミ各社に配信されたという。


日本対クロアチア
日本対クロアチアまで、あと・・・・4時間


刻々と試合時間が迫ってきます。


今日もたくさんのサポーターがテレビから応援することでしょう。


熱狂の今日の日本戦


勝ってくれ日本!!!


チェコどうした??
あまりにも順当だった今回の大会にも波乱がまっていた。

チェコとイタリアのいる組である。


今大会の死の組になるのは、この組だろうか?


ガーナがチェコに2-0で勝ってしまったのである。


チェコ!


チェコ!


チャコ!




ダジャレはいいとしても、チェコはどうなるのだろうか?

チェコ対イタリアだろ


で勝ち負けが決まれば、どちらかが予選敗退の可能性が濃厚である。

さあどうなるのやら

ポルトガル勝ったね~
ポルトガルが決勝トーナメント進出がきまりました。

おめでとうございます。


昨日は、ポルトガルとイランとの試合を観戦しておりました。


イランは、超守備的



あまりにつまらなかったです。



だから、テレビを見ながら他の作業をしていたのですが、



そしてら・・・・



ゴールシーンを見逃してしまった・・・・・・



がーんがーん

でした。


その後は、イランは比較的に攻撃的になりましたが、
個人的には後味のわるい試合でした。

アルゼンチン強し
マラドーナ2世のFWメッシが、W杯最年少記録となる18歳357日でのゴールを記録した。後半43分、右ペナルティエリア外でパスを受けると、そのまま右足で鮮やかなゴール。ボールはゴールネットへ突き刺さり、歴史が塗り替えられた。W杯最年少記録の更新は76年ぶり。また、33分にもクレスポのゴールをアシストするなど、終盤での出場も存在感をアピールしていた。


いや~、アルゼンチン強すぎ
あんなにパスが繋がるサッカーは見てても気持ちいいね
何気にサビオラがめちゃめちゃキレてていい動きだった
で、後半途中からメッシきたねぇ!!いきなりアシストしたら
その後は得点もしちゃったよ!!すごすぎ
途中出場であれだけ結果残せる選手がいるのうらやましいw
W杯新記録樹立だけどイングランドのウォルコットが塗り替えそうw
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