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ヴァロン ベーラミ (SUI)
スイスのセレブ情報誌『シュバイツァー・イラストリエルテ』は最近、国際舞台に躍り出たヴァロン・ベーラミのことを、「我らのデビッド・ベッカム」と評した。実際、多くの点で、この評価に異論を唱えるのは難しいだろう。
この若きスイスのミッドフィールダーと、イングランドの名立たるキャプテンの間には、確かに、表面的にも似たところがたくさんある。ベーラミもベッカムも、奇抜なヘアスタイルを好み、家族に捧げたタトゥーで知られ、そしてスポーツカーをこよなく愛す。ただし、ベーラミの現在の愛車、BMW X5とポルシェは、絶え間なく車を買い換えているベッカムに比べれば、控えめだと言えるかもしれない。

2人は、ピッチでの姿にも、たくさんの共通点がある。強力なシュート力、右ウィング突破にかける情熱などだ。ベッカムは、より中心的なポジションに入ってゲームを変えることができる一方で、ベーラミは、攻撃的右バックとしても起用できる。

人目を引くヘアスタイルと車はともかくとして、ベーラミがベッカムに似ている点を挙げるとすれば、自分の仕事に対して、謙虚に、そして真剣に取り組む姿勢だ。ベッカムをはじめ、今日のサッカー界で確固とした地位を築いている選手の多くは、その生い立ちゆえにバランス感覚があるとされている。ベーラミの場合、生い立ちは確実に重要な要因だ。

1985年4月19日、コソブスカ・ミトロヴィツァのコソボ市北部で生まれたベーラミは、わずか4歳にして、家族とともに生まれ故郷を去らなければならなかった。コソボ系アルバニア人に対する差別が悪化し、地域がゆっくりと内戦に向かっていたからだ。

両親と姉の4人家族は、スイス南部のイタリア語圏に移り住み、すぐに地域社会に溶け込んだ。しかし、スイスの移民法は制限が厳しく、ベーラミ一家は3回にわたって、コソボに強制送還されるかもしれないという危険な状況に陥った。

父親は優れたサッカー選手で、スイスの下部リーグクラブのディフェンスとしてプレーした。しかし、幼い頃のベーラミは、むしろ陸上競技で才能を発揮し、クロスカントリーの地域タイトルを4回獲得している。

が、13歳になる頃までには、純粋に走ることに魅力を感じなくなり、以後はサッカーに専念。この時すでにベーラミは、スポーツを専門とする学校に通っており、毎朝6時に家を出る生活をしていた。

とはいえ、ベーラミにとって、サッカーはちょっとした気晴らしにすぎなかった。2000年、スイス1部リーグのクラブ、ルガノが彼を獲得したが、それでもなお、このスポーツを自身の生涯の仕事にしようという気持ちはなかった。

ルガノに入って、トップチームへの昇進街道を足早に上り詰めると、ベーラミ自身もプロとしてやっていくことを意識するようになった。2002年、クラブが破産したのを受け、初めて外国へ移籍。スイスから南への旅は、そう遠くないイタリアのジェノアが行き先だった。そして、1年以内にまた移籍となる。今度は、セリエBのベローナだった。ベローナのマッシモ・フィッカデンティ監督は、イタリアの指揮官にしては珍しく、選手に自由に走り回ることを許した。このスタイルはベーラミには理想的で、その多才ぶりに、すぐにセリエAからの関心が寄せられるようになった。

2005年夏、ベーラミの獲得レースを勝ち抜いたのはラツィオだった。ベーラミは、このステップアップにも難なく適応し、驚くほどの速度でトップチームに入り込む。2年前にスイス国籍を得て、すでにスイスチームではU17、U18、U19、U21に参加。そして今や、第2の母国にとって明らかな代表候補選手となった。

国際試合のデビュー戦では、自分を印象付けるチャンスはほとんど与えられなかった。スイスのコビ・クーン監督は、ワールドカップ予選中、2005年10月にホームで行われたフランス戦の最後の数分しか、ベーラミを起用しなかったためだ。しかし、その1ヵ月後に訪れた次のチャンスを、ベーラミは逃さなかった。やはりホームで行われたトルコ戦、ベンチから飛び出した3分後にゴールを決め、スイスはこれで2-0として、プレーオフに勝利したのだ。

ワールドカップ本大会で、ベーラミがさらなる強国を相手に驚きの活躍を続けるなら、ベッカムと比較されることも、もっと多くなることだろう。ベーラミ自身、ベッカムの大ファンだと公言しており、こうした比較を気にすることはなさそうだ。「ベッカムのプレースタイルが好きなんだ」と昨年10月に行われた新聞のインタビューでも語っている。ベーラミが示した敬意に対して、この夏の大会期間中、ベッカムが礼を返す機会も、もしかするとあるかもしれない。

ルーカス ポドルスキ (GER)
ドイツを熱狂させるポドルスキ
ほかの選手同様、U-19のストライカー、ルーカス・ポドルスキが、クラブのユースチームからトップチーム入りを目指そうと努力を重ねていたのは、2年ほど前のことだ。現在ポドルスキは20歳。ドイツサッカー史上、異例の速さで出世街道をひた走る彼は、いまやアディダスのデザイナーコレクションのスポーツウェアにも彼の名前がしっかりデザインされ、トップスターの仲間入りを果たそうとしている。
2006年FIFAワールドカップ™の開催国は地元のドイツ。若きポドロスキの肩には人々の大きな期待が重くのしかかっているのも事実だ。彼の前監督であるフーブ・ステフェンスは、「ポドルスキは、若き頃のヨハン・クライフ、ライアン・ギグスあるいはウェイン・ルーニーだ」と評する。

18歳のポドルスキは、まだFCケルンのユースメンバーだった。ブンデスリーガ1部リーグ降格の危機にさらされていたトップチームを、少ない予算の中で立て直しを図ろうとしていたマルセル・コラー監督は、クラブのユースチームの名簿から偶然180cm、81kgの大型ストライカーを見つけた。ポドルスキはトップチームとの練習に参加し、その後まもなくトップチームのメンバーとしてデビュー。最近までケルンの試合をスタジアムのスタンドで観戦していた彼だったが、瞬く間にその名がスタジアム中に響くことになった。

まるで流星のごとく鮮やかなポドルスキの出世劇は、2003年11月22日のデビュー戦に遡るが、この若き新星はまだまだ発展途上にあり、日の出の勢いはとどまるところを知らない。2004年春、ケルンは2部リーグへ降格したが、ポドルスキ自身は、トップチームでの最初のシーズン19試合で10得点という輝かしい成績を残し、ブンデスリーガ43年の歴史において歴代18歳プレーヤーの最高得点記録を打ち立てた。

ケルン出身のポドルスキは、クラブの2部降格後もケルンに残留することを選んだ。最近のインタビューでは、「いろいろ学ぶにはいい環境だった」と、彼はブンデスリーガ2部リーグでの最初のシーズンを振り返る。彼が挙げたシーズン通算24得点は、たった1シーズンで1部リーグ復帰を達成したケルンの大きな原動力となった。そして、ポドルスキは1部リーグ復活の2004/05シーズンの開幕を待つことなく、ドイツ代表チーム入りを果たした。2部リーグ所属選手の代表入りは、1975年以来初めてのことである。2004年6月6日のハンガリー戦で、試合終盤に交代選手として起用され、ルディ・フェラー監督率いるドイツ代表のメンバーとしてデビューを飾った。

ファンの間で「ポルディー王子」と親しまれているポドルスキは、ユーロ2004でも代表メンバーに選ばれ、欧州トップレベルの洗礼を受けることになる。現在までに国際大会の出場経験は15試合、うち7得点挙げている。

この「ポルディッシモ(ポドルスキの愛称)」は、FCケルンとの契約が2007年まで残っているものの、ケルンの次に好意を寄せているバルセロナへの移籍希望も事あるごとに公言してきた。だが、ヨーロッパのスカウトマンたちは、常にポドルスキを取り巻く情勢に目を光らせ、中でもドイツ国内でのライバル、バイエルンは一際ポドルスキに興味を示している。

バイエルンの監督フェリックス・マガトは、若きポドルスキに惜しみない称賛を送る。「彼は、2006年ドイツ大会において、ユーロ2004でのイングランドのウェイン・ルーニーと同じくらいの衝撃を世界に与えることになるだろう。ルーニーの方がより強靭でパワフルだが、一方のポドルスキは洗練さでルーニーより優れている。彼のプレーを見て、彼がわずか20歳だなんて誰も思わないだろう。まだ若いのに、ベテランの狡猾ささえ感じられるのだから」。

人気急上昇中のポドルスキだが、その人気の秘密はサッカー選手としての才能だけでない。ポドルスキは、大衆が求めていた新しいヒーローとしてメディアにもよく登場し、ちやほやされることを楽しんでいるかのようだ。「ルーカスは、無意識に機転の効いたコメントを言って応対しているだけだよ」と話すのは、彼のエージェントを務めるコン・シュラム氏。「彼は昔からちっとも変わっていないよ」。

人々の中には、そんなタレントのようなポドルスキが鼻につくと感じる人もいるようだが、言い換えればそれほどキャラクターが際立っているということでもある。そんなタレント性とルディ・フェラーのような身のこなしを持ち合わせる彼は、デビッド・ベッカムに勝るとも劣らないマーケティングに必要不可欠な存在にもなっている。既にポドルスキは、ハビエル・サビオラ、アリエン・ロッベン、アレサンドロ・デルピエロ、ダビド・トレゼゲと並び、アディダスが展開する新しいサッカーシューズのプロモーションに参加している唯一のドイツ人サッカー選手であり、彼のイニシャルとFCケルンのロゴをあしらったLP-10コレクションと呼ばれる新作シューズを発表している。さらに、ポドルスキはルーニーやロナウジーニョとともにコンピュータゲームのパッケージ写真にまで登場している。

だが、驚くべきことに当の本人の姿勢はまったく変わらない。地に足のついたポドルスキは「自分はまだまだ未熟者だ」と、冷静に自己評価を下す。「代表でプレーする時は、オリバー・カーンやミヒャエル・バラックのような選手をしっかり見て勉強している。まだまだ彼らから学ぶことがたくさんあるからね」。エスカレートするメディア攻撃に時々押し潰されそうになるものの、家族とガールフレンドのモニカが何より心の安らぎを与えてくれる存在だと話す。ポドルスキとその家族がポーランドのグライビッツからドイツに移住したのは、彼が2歳の時のこと。「練習から帰宅すると、必ずモニカはテーブルに何か用意しておいてくれるんだ。たいていはポーランド料理。まさにお袋の味かな」とポドルスキは笑う。

アルテム ミレフスキー (UKR)
パワーと優雅さ。この2つの要因を兼ね備えたアルテム・ミレフスキーは、スウェーデンのズラタン・イブラヒモビッチなどとは全く異なるスタイルを取っている。
190センチという体格ながら、スピードのある攻撃的ミッドフィルダーのミレフスキーは、21歳にして、ディナモ・キエフのトップチームに不可欠な存在となっている。 ミンスクのスメナ・アカデミー出身の彼は、2000年のUEFA U-16欧州選手権のベラルーシの予選試合で重要な役割を果たしたが、その後ウクライナ国籍を取得した。

完璧なボールコントロールテクニックと広い視野を持つミレフスキーは、ストライカーも務めることができる。 実際2005年FIFAワールドユース・オランダ大会では、同胞のオレクサンデル・アリエフと2トップを務め、2人で素晴らしい活躍を見せた。 しかし、A代表での出場経験はまだないため、ブロヒン監督率いるウクライナ代表ではダークホース的な存在としてチームに貢献することになるだろう。

ルカ モドリッチ (CRO)
クロアチアを盛り立てるモドリッチ
ズラトコ・クラニチャル監督率いるクロアチア代表チームが、アルゼンチンとの親善試合に3-2で勝利した3月1日、地元のある新聞には「頼りがいのある男たち」という見出しが飾られた。
南米の強豪を打ち負かし、FIFAワールドカップのグループFにてブラジル、日本、オーストラリアと組み分けられたクロアチア代表への信頼が高まったのは言うまでもない。地元の新聞は「頼りがいのある男たち」という見出しをもって代表チームを称賛し、特に国際的デビューを果たした若きミッドフィルダー、ルカ・モドリッチのジュネーブで行われたこの試合での活躍ぶりを称えた。

ディナモ・ザグレブのスターの卵は、負傷中のロベルト・コバチに代わって代表チームの一員として試合に出場し、ミッドフィルダーのニコ・クラニチャルとニコ・コバチとのそつのない連携プレーで、クラニチャル監督の信頼を裏切らない活躍を見せた。まさに、モドリッチの活躍は、チームが試合に勝利しただけではなく「また一人力強いプレーヤーを手に入れた」ことをクラニチャル監督に印象づけたのである。

「あらゆるレベルで優秀」
FIFAworldcup.comとのインタビューでクラニチャル監督は、「ルカはU-17、U-19、U-21で代表入りし、それぞれのレベルで優れた活躍をしてきた。その才能に注目し、またロベルト・コバチが負傷していたこともあって、アルゼンチン戦にルカを招集してみた」とモドリッチの活躍を称賛している。

「ルカにとっては大変な試合だったと思う。デビュー戦だったので精神的に消耗したみたいだしね。しかし、試合にうまく入り込んで見事な活躍をし、中盤でニコ・クラニチャルやニコ・コバチといい連携プレーを見せてくれた。彼にはとても満足している。才能に恵まれ、存在感が強く、組織的なプレーができる資質を備えている。あの試合ではルカを当てにできるかどうかを見てみることも重要だった。試合に勝ったのみならず、いい選手を見つけた点で有意義な試合だったね」。

彼がクロアチア代表としてドイツ大会に出場することは、かなり現実味を帯びている。モドリッチにとっては、ディナモ・ザグレブで初めて全シーズン出場し、クロアチアリーグでの優勝を果たしたのに引き続き、忘れられない12カ月間となることだろう。

隣国ボスニア・ヘルツェゴビナのズリニェスキでスタートを切った弱冠20歳の彼は、2004/05シーズン半ばでインテル・ザプレシツからディナモに移籍したが、移籍してからは夏のオフシーズン前に4試合に出場するだけだった。

ゴールへの嗅覚
だが、8月以来、モドリッチはディナモの大黒柱として活躍し、5月6日、オシエクを打ち負かしてクロアチアリーグの優勝を果たした。彼はミッドフィールドでの質の高いプレーに加え、4試合すべてに得点を入れるという離れ業までみせた。

ゴールした7得点のうち、大変重要な意味を持つものもあった。彼のおかげで、ディナモはシーズン後半の2月12日、前回優勝のハイドゥク・スプリトを打ち負かすという幸先の良いスタートを飾っただけでなく、4月29日には、ライバルのリエカとの試合で2-2と引き分け、ディナモを優勝へ近づけた。

リーグ優勝を果たした数週間後、事態はさらに良い方向へ向かった。親善試合での活躍で代表選出に王手をかけ、国際的レベルでの輝かしい未来がモドリッチをもうすぐそこで待ち受けている。また、クラニチャル監督も彼がさらに成長すると確信している。「彼は力強い存在感と優れた協調性を持つ、才能豊かな選手である」と監督は述べている。クロアチア国民の目には優勝という二文字がちらついているはずだ。それはモドリッチの目にも同じことだろう。

ホセ モンティエル (PAR)
パラグアイのニューウエーブ、モンティエル
パラグアイは、年々確実に実力を伸ばし、南米のサッカー大国を脅かす存在になってきた。綿密な準備で成功を収めてきたパラグアイは、新しいバックボーンを率いる若手に自国の運命を託す。
「アルビロハ(パラグアイの代表)」の次なる挑戦は2006年ドイツ大会。彼らの方針が正しいことを証明するチャンスだ。ホセ・ルイス・チラベルト、セルソ・アジャラ、カタリノ・リバロラ、エスタニスラオ・ストゥルウェイ、ホルヘ・カンポスなどの有力選手が引退したが、カルロス・ガマラ、デニス・カニサ、ロベルト・アクニャ、ホセ・カルドソらベテラン勢は健在だ。さらにフスト・ビジャル、カルロス・パレデス、ロケ・サンタクルス、ネルソン・バルデスなどの若手たちがをチームを活気付ける。

パラグアイのあふれる才能はこれでは終わらない。今この国で最も注目を浴びる17歳のホセ・アルヌルフォ・モンティエルをはじめとし、さらに若いプレーヤー達が台頭してきた。

目を見張る成長
「モンティ」の愛称で親しまれるモンティエルは、1988年3月19日イタグアに生まれた。4人兄弟の末っ子である彼は、イタグアのクラブ・オリンピックでフットボールの世界に足を踏み入れる。パラグアイで歴史、人気ともにトップを誇るクラブ・オリンピアのスカウトが、偶然彼の比類なき才能を発見し、すぐに契約に持ち込んだ。テクニックに長けたこのセントラル・ミッドフィルダーは、黄金の右脚と試合への的確なビジョンを持ち合わせ、2004年2月12日に対ソル・アメリカ戦でデビューを飾ると、ぐんぐんスターダムをのし上がってきた。

「怖くはなかったよ。すべて自然な流れだった。レギュラーのユニフォームを身に付けるプレッシャーは感じなかったし、今でも感じてはいない」。16歳のまだあどけない少年は、驚くほど冷静に語った。オリンピアでレギュラーの座を確実にしたモンティエルは、2004年パラグアイで開催された南米U-15選手権の代表に選ばれる。

しかし、大会3ヵ月前に頚骨を骨折し、出場が危ぶまれる。7週間のリハビリで9月11日の開幕に間に合うかどうかは微妙だとされた。だが、すべての予想に反して、モンティは、最初の試合に出場。1試合目は17分、2試合目には42分プレーし、スタメンの11人に名を連ねた。チームのスターとして輝かしい活躍をしたモンティは、PK戦で冷静にシュートを決め、コロンビアを破って優勝を勝ち取った。

モンティエルがパラグアイ代表として2度目にユニフォームを着たのは、翌年の4月。2005年FIFA U-17世界選手権ペルー大会の予選だった。またもやモンティエルは、修練された効果的なプレーで目を見張る活躍を見せ、チームに貢献する3ゴールを決める。このうちの1つは、グループ戦の最終試合、対ブラジル戦だった。だが、ゴールは決めたたものの、チームは予選通過を逃すという残念な結果に終わった。彼は、「これで皆が精神的に成長できることを願っている。世界選手権を逃したのはパラグアイにとって、とても痛かったよ」と述べている。

最初のゴール
オリンピアに戻って活躍を続けたモンティエルは、シニア代表チームへの道を歩み始めた。5月4日、セロ・ポルテーニョとの一騎打ちの末、初のフェアプレー賞を獲得。中盤での激しい戦いでは、モンティエルの誠実で冷静なプレーが光り、ますます評価を高めていく。わずか2週間後、リベルタ戦で初のゴールを挙げる。「母の日に決めたこのゴールは彼女に捧げたい。母は、いつも自分をサポートしてくれたし、誰よりも愛している」。モンティエルは試合後にそう語った。

このような素晴らしい活躍をヨーロッパのクラブが放っておくはずがない。スイスのバーゼルがまず名乗り出たが、契約には至らなかった。この後、イタリアのクラブ、ウディネーゼがすばやく興味を示し、2006年の夏に入団するよう契約を交わした。1月のヴェネツィアとの親善試合でゴールを決め、3-0の勝利に貢献したモンティエルを見て、チームの経営陣は今すぐプレーさせたいと地団駄を踏んだ。

2006年ドイツ大会の代表として彼が選ばれるのは確実だろう。パラグアイの監督、アニバル・ルイスは、去年の地区予選で、最後の2試合にモンティエルを起用した。このチャンス到来には、誰よりもモンティエル自身が驚いたようだ。「出場できるとは思っていなかった。でもその時が来たら、期待に応えられるように全力を出すしかないと感じたよ。やってやろうじゃないか」と吉報が届いた後に意気込んだ。

昨年10月8日に、代表戦で公式デビューを果たす。この対ベネズエラ戦に1-0で勝利したパラグアイは、ドイツ大会への切符を手に入れた。モンティエルのプレー時間はわずか13分だったが、4日後に控えた対コロンビア戦では先発出場を確実にする見事なプレーを披露した。1-0でこの試合には敗れたものの、モンティは、ファンからもプレスからも絶賛された。「子供の頃からの夢がかなった。周りからの賞賛をどう思うかって?もちろん、やる気に拍車がかかるね。後は自分がこれまでの倍以上努力して、その期待を裏切らないようにすることだ。新たな出発だね」。試合後、彼は謙虚に語った。

代表チームの監督ルイスは、彼の開花した才能に熱いエールを送っている。「サッカーでは、若手が大舞台で活躍するのは稀なんだ。技術はあるが、1試合でヒーローになることは珍しい。このようなスターには時間とサポートが必要だ。アルゼンチン、ウルグアイ、スペイン、イングランド、イタリアの名選手たちも同じだ。そしてパラグアイだって そうやって時間をかけて花開いてきたんだ」。

コロンビア戦の前夜、モンティエルは試合に対する姿勢を明確に示した。パラグアイはすでに予選通過を決めているのだから、チームは少々手を抜いてもいいのではないかと尋ねられた時、彼は「僕はワールドカップのためにプレーする。だから全力を尽くす」と断言した。モンティエルの答えに反対する者はいない。そこには本物のプロに成長した若者の姿があるのだ。
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