ラモス、夢の実現まであと一歩
スペインが2002年のワールドカップ韓国・日本大会を戦っている間、当時16歳だったスペイン出身のセルヒオ・ラモスは、遠くセビリアの自宅から声援を送り、有名な赤のユニフォームを自分もまた身に付けられる日を待ち望んでいた。4年経った今、この青年の夢はまさに実現しようとしている。
クラブにおいても国際的な水準においても、ラモスはまさに流星のように成長を遂げてきた。彼は2004年2月のスペインリーグでセビリア選手としてデビューを飾り、さらにそのシーズン最高峰の試合に6回もの出場を果たした。翌年、このアンダルシアのクラブから31回の試合に登場。その活躍ぶりに強い印象を受けたレアル・マドリードは2,700万ユーロという手痛い出費と引き換えに、この才能あるディフェンダーをベルナベウへ連れ帰った。
FIFAworldcup.comとの単独インタビューにおいて、ラモスは「僕の年齢でこれだけのことを成し遂げた人はごくわずかだ」と語った。 「確かに今現在で履歴書に書けるのはU-19ヨーロッパ選手権だけだけど、その点はすぐに何とかするつもりだ」と彼は笑顔で付け加えた。
若いセルヒオにとって、背番号19というのは幸先が良い数字のようだ。彼が国際大会で初めて白星を挙げたのはU-19UEFAヨーロッパ選手権スイス大会でのこと。彼は大いに活躍してスペインは決勝でトルコを下した。ついで2005年3月30日、19歳の誕生日にはスペイン代表チームへのデビューをまさに背番号19番のユニフォームを着て果たしたのだった。それはベオグラードでのFIFAワールドカップ™地区予選、セルビア・モンテネグロとの決定的な試合でのことだった。
「ルイス・アラゴネス監督にチャンスを与えられたときは天にも舞い上がるような気分だった。もちろん、背番号は誕生日に合わせて選んだんだ。今から思い起こしても、あの日は僕にとって本当に特別な日だった」と語った。その日の感動はまだ鮮明に心に刻まれているようだ。
アラゴネスが12月、ドイツ大会を戦うスペイン代表メンバーの候補33人の選手を集めたとき、ラモスもまたその中にいた。「いわゆるチーム作りを目的に、他の候補選手たちと会って充実した時間を過ごす良い機会だった。一緒に昼食をとった後、"ワールドカップという重大な試練が近づいた今、厳しい訓練が待ち受けている"と監督は強調したんだ。そこにいた33人の中から最終的な代表メンバーが選ばれるんだよ」 。
セルヒオ・ラモスはFIFAワールドカップ™初出場を弱冠20歳で果たせるかもしれない。この生粋のアンダルシア人選手にとっては大きな夢だ。ラモスは、自身のモチベーションを高めるためには監督からのアドバイスももちろん必要だが、ドイツ大会への出場が決定するまでの試合の一つひとつで、あるいはトレーニングセッションで、ただひたすら懸命に努力を続けるには自身の熱望だけで十分だという。「ワールドカップへの出場は自分自身で設定した目標の一つだし、どんなサッカー選手にとっても意味深いものだ。チームと共に成功を手に入れるため、そしてワールドカップに出場するために毎日奮闘していく」と誓った。
ラモスは、いつも守備の中心でミッドフィルダーやライトバックとしてプレーしてきたが、どのポジションを最も得意としているのだろう?「その質問は何度もされてきたけれど、一度もはっきり返事をしたことがない。それは、あらゆる場面で万能性を発揮できなければ一流の選手とは言えないと信じているからだ。監督が先発で僕を出場させてくれる限り、ポジションはどこであってもあまり気にしない」。
とは言っても、アラゴネスがラモスを右サイドで使おうとしていることは既に承知しているようだ。そうなれば、レアル・マドリードのチームメート、ミチェル・サルガドと先発の座をまともに争うことになる。両者ともFIFAワールドカップ™には初出場となるわけだが、若さをとるか経験をとるかのこの選択は非常に興味深い。
「若い選手の存在は、チームに新風をもたらす意味でとても重要だ。同時に、新しい才能とベテランのいいバランスも欠かせないと僕は信じている。代表の経験が豊かなベテラン、ラウル、(カルレス・)プジョル、(フェルナンド・)モリエンテスらはきっとフィールドにおいてもロッカールームにおいても重要な役割を果たすだろうからね」とラモスは言う。
一方で、若き大物たちもそこにはいる。彗星のごとくランクアップを果たしたディフェンダーのラモスも、ユースチーム時代からの長いつきあいの仲間たちを忘れてはいない。「代表入りの有力候補は、たくさんいます。代表選手の決定は奥が深く、複雑な過程であることは承知の上ですが、アーセナルのセスク・ファブレガスやバルセロナのアンドレス・イニエスタといった選手は成績を上げてきているし、選ばれるに値する力がきっとあります」と自らの推薦を直接、監督に報告したりもする。
スペインの秘められた可能性を固く信じるラモス。抽選会でウクライナ、チュニジア、サウジアラビアを対戦相手とする比較的有利なグループHに入ったこともあり、ドイツでの本大会で大活躍するチャンスも大いにあると期待を膨らませる。その一方、あまり舞い上がりすぎないよう自分をコントロールすることも忘れてはいない。
「一見、楽なグループだという印象はあっても、どのチームも侮ってはいけない」と彼は言う。「それぞれに実力があるからこそ本大会に出場を果たしているのだから。他の大国のような評判はないとしても、みな強敵なのだということは十分に承知している。だからこそ、このグループを勝ち抜くために持てる力はすべて出し切りたい。ウクライナはこのグループで鍵となるチームだろう。強力なメンバーを集結させて挑んでくるに違いない。そう簡単には勝たせてはくれないと思う」。
スペインのFIFAワールドカップ™史上最高の成績は第4位。それは1950年のブラジル大会にまで遡る。以来、準々決勝の段階もしくはそれ以前で、その記録を打ち破ろうと挑戦し続けてきた。今回の大会では果たしてどこまで勝ち上がれるだろう?「願わくば決勝までいきたい」とラモスは言う。
「今年のスペインチームは強豪だ。良い結果を出すワールドカップになることを願っている。少なくとも、呪われた準々決勝の歴史は打ち破りたい」。思い望むことは何でも実現してきたラモス。この願いもきっと叶えることだろう。
スペインが2002年のワールドカップ韓国・日本大会を戦っている間、当時16歳だったスペイン出身のセルヒオ・ラモスは、遠くセビリアの自宅から声援を送り、有名な赤のユニフォームを自分もまた身に付けられる日を待ち望んでいた。4年経った今、この青年の夢はまさに実現しようとしている。
クラブにおいても国際的な水準においても、ラモスはまさに流星のように成長を遂げてきた。彼は2004年2月のスペインリーグでセビリア選手としてデビューを飾り、さらにそのシーズン最高峰の試合に6回もの出場を果たした。翌年、このアンダルシアのクラブから31回の試合に登場。その活躍ぶりに強い印象を受けたレアル・マドリードは2,700万ユーロという手痛い出費と引き換えに、この才能あるディフェンダーをベルナベウへ連れ帰った。
FIFAworldcup.comとの単独インタビューにおいて、ラモスは「僕の年齢でこれだけのことを成し遂げた人はごくわずかだ」と語った。 「確かに今現在で履歴書に書けるのはU-19ヨーロッパ選手権だけだけど、その点はすぐに何とかするつもりだ」と彼は笑顔で付け加えた。
若いセルヒオにとって、背番号19というのは幸先が良い数字のようだ。彼が国際大会で初めて白星を挙げたのはU-19UEFAヨーロッパ選手権スイス大会でのこと。彼は大いに活躍してスペインは決勝でトルコを下した。ついで2005年3月30日、19歳の誕生日にはスペイン代表チームへのデビューをまさに背番号19番のユニフォームを着て果たしたのだった。それはベオグラードでのFIFAワールドカップ™地区予選、セルビア・モンテネグロとの決定的な試合でのことだった。
「ルイス・アラゴネス監督にチャンスを与えられたときは天にも舞い上がるような気分だった。もちろん、背番号は誕生日に合わせて選んだんだ。今から思い起こしても、あの日は僕にとって本当に特別な日だった」と語った。その日の感動はまだ鮮明に心に刻まれているようだ。
アラゴネスが12月、ドイツ大会を戦うスペイン代表メンバーの候補33人の選手を集めたとき、ラモスもまたその中にいた。「いわゆるチーム作りを目的に、他の候補選手たちと会って充実した時間を過ごす良い機会だった。一緒に昼食をとった後、"ワールドカップという重大な試練が近づいた今、厳しい訓練が待ち受けている"と監督は強調したんだ。そこにいた33人の中から最終的な代表メンバーが選ばれるんだよ」 。
セルヒオ・ラモスはFIFAワールドカップ™初出場を弱冠20歳で果たせるかもしれない。この生粋のアンダルシア人選手にとっては大きな夢だ。ラモスは、自身のモチベーションを高めるためには監督からのアドバイスももちろん必要だが、ドイツ大会への出場が決定するまでの試合の一つひとつで、あるいはトレーニングセッションで、ただひたすら懸命に努力を続けるには自身の熱望だけで十分だという。「ワールドカップへの出場は自分自身で設定した目標の一つだし、どんなサッカー選手にとっても意味深いものだ。チームと共に成功を手に入れるため、そしてワールドカップに出場するために毎日奮闘していく」と誓った。
ラモスは、いつも守備の中心でミッドフィルダーやライトバックとしてプレーしてきたが、どのポジションを最も得意としているのだろう?「その質問は何度もされてきたけれど、一度もはっきり返事をしたことがない。それは、あらゆる場面で万能性を発揮できなければ一流の選手とは言えないと信じているからだ。監督が先発で僕を出場させてくれる限り、ポジションはどこであってもあまり気にしない」。
とは言っても、アラゴネスがラモスを右サイドで使おうとしていることは既に承知しているようだ。そうなれば、レアル・マドリードのチームメート、ミチェル・サルガドと先発の座をまともに争うことになる。両者ともFIFAワールドカップ™には初出場となるわけだが、若さをとるか経験をとるかのこの選択は非常に興味深い。
「若い選手の存在は、チームに新風をもたらす意味でとても重要だ。同時に、新しい才能とベテランのいいバランスも欠かせないと僕は信じている。代表の経験が豊かなベテラン、ラウル、(カルレス・)プジョル、(フェルナンド・)モリエンテスらはきっとフィールドにおいてもロッカールームにおいても重要な役割を果たすだろうからね」とラモスは言う。
一方で、若き大物たちもそこにはいる。彗星のごとくランクアップを果たしたディフェンダーのラモスも、ユースチーム時代からの長いつきあいの仲間たちを忘れてはいない。「代表入りの有力候補は、たくさんいます。代表選手の決定は奥が深く、複雑な過程であることは承知の上ですが、アーセナルのセスク・ファブレガスやバルセロナのアンドレス・イニエスタといった選手は成績を上げてきているし、選ばれるに値する力がきっとあります」と自らの推薦を直接、監督に報告したりもする。
スペインの秘められた可能性を固く信じるラモス。抽選会でウクライナ、チュニジア、サウジアラビアを対戦相手とする比較的有利なグループHに入ったこともあり、ドイツでの本大会で大活躍するチャンスも大いにあると期待を膨らませる。その一方、あまり舞い上がりすぎないよう自分をコントロールすることも忘れてはいない。
「一見、楽なグループだという印象はあっても、どのチームも侮ってはいけない」と彼は言う。「それぞれに実力があるからこそ本大会に出場を果たしているのだから。他の大国のような評判はないとしても、みな強敵なのだということは十分に承知している。だからこそ、このグループを勝ち抜くために持てる力はすべて出し切りたい。ウクライナはこのグループで鍵となるチームだろう。強力なメンバーを集結させて挑んでくるに違いない。そう簡単には勝たせてはくれないと思う」。
スペインのFIFAワールドカップ™史上最高の成績は第4位。それは1950年のブラジル大会にまで遡る。以来、準々決勝の段階もしくはそれ以前で、その記録を打ち破ろうと挑戦し続けてきた。今回の大会では果たしてどこまで勝ち上がれるだろう?「願わくば決勝までいきたい」とラモスは言う。
「今年のスペインチームは強豪だ。良い結果を出すワールドカップになることを願っている。少なくとも、呪われた準々決勝の歴史は打ち破りたい」。思い望むことは何でも実現してきたラモス。この願いもきっと叶えることだろう。
2シーズン、ブンデスリーガでプレーしただけで20才のディフェンダー、マルセル・ヤンセンはドイツ代表チームの左サイドバックのポジションにつくこととなった。2005年、ボルシア・メンヘングラッドバッハのディフェンダーは、FIFAワールドユース選手権の代表チームでスターとなった。その後スロバキアとの親善試合でA代表デビューを果たした。
まだ、2006年のワールドカップでは出場機会はないが、今後飛躍が期待できる選手である。
まだ、2006年のワールドカップでは出場機会はないが、今後飛躍が期待できる選手である。
もう一人のロナウドの台頭
ディフェンダーになったつもりで、クリスチアーノ・ロナウドと一対一の対決をするのを想像してほしい。マンチェスター・ユナイテッドおよびポルトガルのウィンガーのロナウドが大きなスライドでドリブルしながら突進してくる。そして、目の前ですばやく(あなたはもはや目で追えないかもしれないが)足元のボールを2回、3 回、4回とまたぐ。あなたはきっと慌てふためき、尻込みし、集中力を取り戻そうと必死になるに違いない。ロナウドはまさに今、注目すべき選手だ。ただし彼を目で追うことができたらの話だが…。
もしも、この仮定の話が現実だとしたら、ロナウドはこの2、3年、世界のトップDF陣を悩ませ続けているので、あなたの仲間はたくさんいることになる。
2003年8月、マンチェスター・ユナイテッドは1224万ポンド(約22億円)という破格の移籍金をスポルティング・リスボンに払ってロナウドを獲得し、当時18歳であったこの若者と5年間の契約を結んだ。デイビッド・ベッカムをレアル・マドリードに放出したばかりのマンチェスター・ユナイテッドは、このイングランド代表キャプテンが抜けた穴を埋める右サイドに、新たなスターを必要としていた。
マンチェスター・ユナイテッドがこの俊足のウィンガーに初めて注目したのは、アメリカで行われた親善試合だ。その夜ユナイテッドは、ロナウドを擁するスポルティング・リスボンと対戦し、まさに彼らが求めている選手を目の当たりにした。試合前、ユナイテッドの選手たちは、スポルティングの選手名簿の中にロナウドの名を見つけたとき、あのロナウドかと恐れを抱いたかもしれない。しかし、こちらのロナウドはマデイラ諸島出身で、元アメリカ大統領のロナルド・レーガンにちなんでその名がつけられた青年だと誰かが説明していたら、ユナイテッドの選手たちは不安にならずに済んだだろう。
1-3で試合に敗れたものの、ユナイテッドは相手を出し抜くスピードとドリブルスキルの持ち主、ロナウドに魅了された。ロナウドは1997年にナシオナルからスポルティングに引き抜かれ、2002/03年のシーズンに一軍入りしていた。ユナイテッドの選手たちは、イングランドへの帰途に着く飛行機の中でロナウドのことをひっきりなしに語り、アレックス・ファーガソン監督に即、ロナウドと契約するように直訴した。しかし、選手たちには知らされていなかったが、監督のファーガソンは実はもう数カ月前からスポルティングの輝く真珠、ロナウドに注目していた。他のクラブも興味を示し始めたため、ファーガソンは「これまでに見た中で最もわくわくさせる若手選手」と称し、ロナウドの獲得に動いた。
記録的な移籍金で契約を結んだロナウドは、ベッカムが着けていた7番のシャツを渡された。偶然にも7番はロナウドのヒーロー、ルイス・フィーゴの番号でもある。ユナイテッド移籍一週間後、ロナウドはポルトガルでフル代表デビューを果たし、自身のヒーロー、フィーゴとともにカザフスタン戦に出場した。
ユナイテッドでのデビュー戦となったボルトン・ワンダラーズ戦で、ロナウドのプレーは絶賛された。サー・アレックスは新契約したロナウドがベッカムの穴を埋めたのを喜び、「ニューヒーローが出現したようだ」とファンに宣言した。しかし、ユナイテッドでのロナウドの初シーズンは順風満帆ではなかった。デビュー直後は期待通りの活躍を見せたものの、ボールを何回もまたぐドリブルをやり過ぎ、肝心なところでのクロスで不可解な失敗をするなど、批判を浴びるようになった。
ロナウドは自らがいつも強調しているように学習能力が早く、自分の欠点を修正するために懸命に努力した。一方、ファーガソンは巨額を投資したロナウドをかばい、過去2年間、冬季中はロナウドをポルトガルで過ごさせた。ファーガソンはロナウドの初シーズン中に「彼はまだ18歳なのだから、起用法は慎重に考えなければならない」と説明した。スコットランド人のファーガソン監督のこの賢明な判断は、2004年のFAカップ決勝で結実した。リフレッシュしたロナウドは、カーディフのミレニアム・スタジアムで行われたFAカップ決勝のミルウォール戦でヘディングを決めるなど活躍をし、最優秀選手に選ばれた。レッドデビル(ユナイテッドの愛称)はこの試合を3-0で勝利し、10度目のFAカップタイトルを獲得した。
ロナウドはその好調ぶりをポルトガル代表としてユーロ2004においても発揮した。ギリシャに敗れ、夢の優勝は逃したものの、ポルトガルの決勝戦進出の原動力となった。ロナウドは同年の夏、オリンピックにも出場したが、ポルトガルはアテネではいい成績を残せなかった。
一年後、再びユナイテッドはFAカップ決勝に進出したが、PK戦でアーセナルに敗れ優勝をさらわれた。しかしユナイテッドは、過去1年で遂げたロナウドの進歩を高く評価し、好条件の契約更改をオファーした。そして2005年の夏、ロナウドは2010年までの契約延長に同意した。
2年連続でFIFA最優秀選手賞の最終選考に残ったロナウドは、世界中のファンからの注目を集め、2005年にFIFPro(国際プロサッカー選手協会連盟)最優秀ヤングプレーヤー賞に選ばれた。しかし2006年FIFAワールドカップ™に向けてのシーズンは、ロナウドにとっては困難な状況でのスタートとなった。父親が重い病に倒れ、9月に行われた地区予選のロシア戦(アウェー)の1日前に他界してしまったのだ。だが、勇敢にも亡き父のためにロナウドはロシア戦に出場し、この試合を0-0で引き分けると、チームは本大会進出を確実にした。後日、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督は、ロナウドの勇敢さを称えて特別の賛辞を呈している。
ロナウドはポルトガルを2006年FIFAワールドカップ™ドイツ大会予選のグループトップに導いた。次はいよいよ自身にとって初の本大会が待ち受けている。この大会は、マデイラ諸島出身のゴールデンボーイが、ブラジルの同名選手より輝き始める時となるかもしれない。だが、このティーンネージャーは浮かれてはいない。「僕にとっての唯一の関心事はベストを尽くし、マンチェスター・ユナイテッドでタイトルを獲得することなんです」と謙虚にコメントを残してしている。
ディフェンダーになったつもりで、クリスチアーノ・ロナウドと一対一の対決をするのを想像してほしい。マンチェスター・ユナイテッドおよびポルトガルのウィンガーのロナウドが大きなスライドでドリブルしながら突進してくる。そして、目の前ですばやく(あなたはもはや目で追えないかもしれないが)足元のボールを2回、3 回、4回とまたぐ。あなたはきっと慌てふためき、尻込みし、集中力を取り戻そうと必死になるに違いない。ロナウドはまさに今、注目すべき選手だ。ただし彼を目で追うことができたらの話だが…。
もしも、この仮定の話が現実だとしたら、ロナウドはこの2、3年、世界のトップDF陣を悩ませ続けているので、あなたの仲間はたくさんいることになる。
2003年8月、マンチェスター・ユナイテッドは1224万ポンド(約22億円)という破格の移籍金をスポルティング・リスボンに払ってロナウドを獲得し、当時18歳であったこの若者と5年間の契約を結んだ。デイビッド・ベッカムをレアル・マドリードに放出したばかりのマンチェスター・ユナイテッドは、このイングランド代表キャプテンが抜けた穴を埋める右サイドに、新たなスターを必要としていた。
マンチェスター・ユナイテッドがこの俊足のウィンガーに初めて注目したのは、アメリカで行われた親善試合だ。その夜ユナイテッドは、ロナウドを擁するスポルティング・リスボンと対戦し、まさに彼らが求めている選手を目の当たりにした。試合前、ユナイテッドの選手たちは、スポルティングの選手名簿の中にロナウドの名を見つけたとき、あのロナウドかと恐れを抱いたかもしれない。しかし、こちらのロナウドはマデイラ諸島出身で、元アメリカ大統領のロナルド・レーガンにちなんでその名がつけられた青年だと誰かが説明していたら、ユナイテッドの選手たちは不安にならずに済んだだろう。
1-3で試合に敗れたものの、ユナイテッドは相手を出し抜くスピードとドリブルスキルの持ち主、ロナウドに魅了された。ロナウドは1997年にナシオナルからスポルティングに引き抜かれ、2002/03年のシーズンに一軍入りしていた。ユナイテッドの選手たちは、イングランドへの帰途に着く飛行機の中でロナウドのことをひっきりなしに語り、アレックス・ファーガソン監督に即、ロナウドと契約するように直訴した。しかし、選手たちには知らされていなかったが、監督のファーガソンは実はもう数カ月前からスポルティングの輝く真珠、ロナウドに注目していた。他のクラブも興味を示し始めたため、ファーガソンは「これまでに見た中で最もわくわくさせる若手選手」と称し、ロナウドの獲得に動いた。
記録的な移籍金で契約を結んだロナウドは、ベッカムが着けていた7番のシャツを渡された。偶然にも7番はロナウドのヒーロー、ルイス・フィーゴの番号でもある。ユナイテッド移籍一週間後、ロナウドはポルトガルでフル代表デビューを果たし、自身のヒーロー、フィーゴとともにカザフスタン戦に出場した。
ユナイテッドでのデビュー戦となったボルトン・ワンダラーズ戦で、ロナウドのプレーは絶賛された。サー・アレックスは新契約したロナウドがベッカムの穴を埋めたのを喜び、「ニューヒーローが出現したようだ」とファンに宣言した。しかし、ユナイテッドでのロナウドの初シーズンは順風満帆ではなかった。デビュー直後は期待通りの活躍を見せたものの、ボールを何回もまたぐドリブルをやり過ぎ、肝心なところでのクロスで不可解な失敗をするなど、批判を浴びるようになった。
ロナウドは自らがいつも強調しているように学習能力が早く、自分の欠点を修正するために懸命に努力した。一方、ファーガソンは巨額を投資したロナウドをかばい、過去2年間、冬季中はロナウドをポルトガルで過ごさせた。ファーガソンはロナウドの初シーズン中に「彼はまだ18歳なのだから、起用法は慎重に考えなければならない」と説明した。スコットランド人のファーガソン監督のこの賢明な判断は、2004年のFAカップ決勝で結実した。リフレッシュしたロナウドは、カーディフのミレニアム・スタジアムで行われたFAカップ決勝のミルウォール戦でヘディングを決めるなど活躍をし、最優秀選手に選ばれた。レッドデビル(ユナイテッドの愛称)はこの試合を3-0で勝利し、10度目のFAカップタイトルを獲得した。
ロナウドはその好調ぶりをポルトガル代表としてユーロ2004においても発揮した。ギリシャに敗れ、夢の優勝は逃したものの、ポルトガルの決勝戦進出の原動力となった。ロナウドは同年の夏、オリンピックにも出場したが、ポルトガルはアテネではいい成績を残せなかった。
一年後、再びユナイテッドはFAカップ決勝に進出したが、PK戦でアーセナルに敗れ優勝をさらわれた。しかしユナイテッドは、過去1年で遂げたロナウドの進歩を高く評価し、好条件の契約更改をオファーした。そして2005年の夏、ロナウドは2010年までの契約延長に同意した。
2年連続でFIFA最優秀選手賞の最終選考に残ったロナウドは、世界中のファンからの注目を集め、2005年にFIFPro(国際プロサッカー選手協会連盟)最優秀ヤングプレーヤー賞に選ばれた。しかし2006年FIFAワールドカップ™に向けてのシーズンは、ロナウドにとっては困難な状況でのスタートとなった。父親が重い病に倒れ、9月に行われた地区予選のロシア戦(アウェー)の1日前に他界してしまったのだ。だが、勇敢にも亡き父のためにロナウドはロシア戦に出場し、この試合を0-0で引き分けると、チームは本大会進出を確実にした。後日、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督は、ロナウドの勇敢さを称えて特別の賛辞を呈している。
ロナウドはポルトガルを2006年FIFAワールドカップ™ドイツ大会予選のグループトップに導いた。次はいよいよ自身にとって初の本大会が待ち受けている。この大会は、マデイラ諸島出身のゴールデンボーイが、ブラジルの同名選手より輝き始める時となるかもしれない。だが、このティーンネージャーは浮かれてはいない。「僕にとっての唯一の関心事はベストを尽くし、マンチェスター・ユナイテッドでタイトルを獲得することなんです」と謙虚にコメントを残してしている。
2006年ワールドカップでは、活躍が期待されているが、期待通りの活躍ができていないが、2010年も注目の選手である。
まだまだ発展途上の神童、ルーニー
出世街道を順調に駆け上がってきたウェイン・ルーニーにとって、「注目プレーヤー」の称号を与えられるには3年遅すぎたと言っても過言ではないだろう。2002年8月17日に彼が少年期を過ごしたエバートンでデビューを飾って以来、現在マンチェスター・ユナイテッドのプレーヤーでイングランド代表のストライカーとして知られるルーニーは常に注目の的である。
2002年夏、エバートンがオーストリアの弱小チームSCブルックを迎え、プレシーズンの親善試合を行った時、彼のプレミアシップでの初ゴールは、実況アナウンサーによって興奮気味にこう伝えられた。「イングランドのポスト、アラン・シアラーと多くの人が信じて疑わないウェイン・ルーニーが、エバートン3つ目のゴールを決めました! 」。だが、シアラーがイングランド代表デビューを果たしたのは21歳のとき。一方のルーニーは20歳の誕生日を昨年10月に祝ったばかりで、既にイングランドのキープレーヤーに成長している。
2002年10月、ルーニーはプレミアリーグで初ゴールを決める。試合終了間際での目を見張る鮮やかな決勝ゴールは、後に2001/02シーズンのチャンピオンに輝くことになるアーセナルの無敗記録を30でストップさせた。そして、人々にルーニーがいる限り、不可能は何もないのだということを知らしめた。ボクサーのようながっしりとした体格を持つルーニーは、相手の守備陣を跳ね返し、次々と記録を破っていった。
2003年2月12日に開催されたオーストリア代表戦では、17歳と111日というイングランド史上最年少で代表デビューを果たした。124年間、誰も破ることのなかったジェームズ・プリンセプの記録を塗り替えたのだ。そして、その7ヵ月後には、ユーロ2004の予選でイングランドが予選突破を決めることになったマケドニアとのアウェイゲームで先制ゴールを挙げ、これはイングランド史上最年少の17歳と317日での代表初ゴールとなった。
彼のうわさは瞬く間にイングランドから世界へと広がった。翌年夏、ポルトガルで開催された本大会では、全世界がルーニーの比類なき才能に気付くことになったのだ。相手サイドに深く切り込むルーニーのスリリングな走りは、相手の守備陣を震え上がらせた。恐れを知らない向こう見ずなプレーで彼は4得点を挙げ、イングランドがスイスとクロアチアを下し、準々決勝進出を果たすのに大きく貢献した。18歳という若さからくる彼のすさまじい勢いは、サッカーの国際舞台など朝飯前のことのようにすら思わせた。
その後、ルーニーは2,700万ユーロという高額な移籍金でエバートンからマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。昨年10月、トルコのフェネルバーチェとの対戦では、デビュー戦を見事なハットトリックで飾った。2005年春にはヤングプレーヤー・オブ・ザ・イヤーに輝き、ルーニーは瞬く間に地元オールドトラフォードにとって欠かせないヒーローとなったばかりでなく、イングランド代表においても不可欠な存在となった。マイケル・オーウェンは最近のインタビューでルーニーついてこう語っている。「敵陣に突進しては、相手の弱点を突く。後方からロングシュートを放つかと思えば、絶妙なパスを送る。ありとあらゆる場面で彼のスキルを見せつけるんだ」。言うなれば、何でも来いの腕前を持つということだろうか。
イングランド代表のトレーニングセッションで行われた新旧対抗戦では、センターディフェンダーとしての能力も抜群だった。練習場では一か八かのゴールを狙って楽しむほどの余裕をみせ、FIFAworldcup.comの取材に応じたイングランドの伝説、ボビー・チャールトン卿は「彼には勝負にかける旺盛な意気込みが感じられ、驚くほどだ」 とルーニーを評した。
10代に別れを告げたルーニーは、今後どこまで成長するのか。ルーニーのマンチェスター・ユナイテッド移籍について語ったアレックス・ファーガソン卿は、ルーニーを「イングランドにとって30年来の最高のヤングプレーヤー」と称賛する。しかし、ピッチの上での彼の才能に疑いの余地はなくとも、性格面で問題がないとは言えない。エバートンでプレーしていた2003/04シーズンでは、ゴール数よりもイエローカードの枚数が上回るという苦い記録もある。イングランド代表の試合においても、過去12ヶ月の間に2度も感情的になる場面があった。
イングランド代表監督のスベン・ゴラン・エリクソンは、昨年11月に行われたスペイン戦で、ハーフタイムを待たずに退場は必至だろうとルーニーをベンチに下げた。彼が2度目の問題行動を起こしたのは、9月に北アイルランドに敗戦を喫したときだ。イエローカードを受けた後、左ウィングに下げられたことを不服に思ったルーニーは、試合後半こそ口を慎んだものの、キャプテンのデビッド・ベッカムとリオ・ファーディナンドに暴言を吐き捨てる始末だった。そして、その同じ9月、ビジャレアル対マンチェスター・ユナイテッド戦で、ルーニーは審判のキム・ミルトン・ニールセンに皮肉たっぷりの拍手を送ったことが原因で退場処分を受けた。彼のプレーに切れがあることに疑いの余地はないが、精神面でまだ成長過程にあることは認めざるをえないだろう。
オールドトラフォードでディレクターを務めるボビー・チャールトン卿は、ここ一年間ルーニーを近くで見守ってきたが、彼が数々の過ちから学び、さらなる活躍をすることを期待している。先週イングランドの国立サッカー博物館で開催された毎年恒例の殿堂授賞祝賀式典の席で、チャールトン卿は「多少血の気の多いルーニーの気性ばかりが取り沙汰されるが、実際には違うんだ」とFIFAworldcup.comに語っている。「彼はこれからめきめき成長していくだろう。彼については、いろんな人がいろんなことを言っているが、レフェリーとの衝突問題にしても、じきに治まるに違いない。彼は頭の切れる青年だし、ピッチでプレーすることをこよなく愛しているから、退場処分ばかり受けてそのキャリアを台無しにしたりはしないだろう。時間が来れば彼も学ぶと思う。ルーニーには驚くほど高いモチベーションがあり、プレーすることをこよなく愛し、勝利への貪欲さも兼ね備えている。こればかりは文句のつけようがないよ」 。
ユーロ2004以降、ルーニーが挙げた10得点のうちイングランド代表戦での得点はわずか1ゴール。この1ゴールは、4-1で敗北を期した8月のデンマークとの親善試合で決めたものだ。しかし、FIFAワールドカップ™決勝トーナメントにおいて、ルーニーが相手チームにとって最大の脅威となることは容易に想像がつくだろう。チャールトン卿は、エリクソン陣営にとってルーニーの存在は重要だと考えている。「彼は偉大なプレーヤーだ。偉大なプレーヤーは否定を許さないんだ」。名だたる名将の1人からそれほどの称賛を得るという事実は、この夏のドイツ大会でルーニーが真に注目すべきプレーヤーであることの力強い証明でもある。
まだまだ発展途上の神童、ルーニー
出世街道を順調に駆け上がってきたウェイン・ルーニーにとって、「注目プレーヤー」の称号を与えられるには3年遅すぎたと言っても過言ではないだろう。2002年8月17日に彼が少年期を過ごしたエバートンでデビューを飾って以来、現在マンチェスター・ユナイテッドのプレーヤーでイングランド代表のストライカーとして知られるルーニーは常に注目の的である。
2002年夏、エバートンがオーストリアの弱小チームSCブルックを迎え、プレシーズンの親善試合を行った時、彼のプレミアシップでの初ゴールは、実況アナウンサーによって興奮気味にこう伝えられた。「イングランドのポスト、アラン・シアラーと多くの人が信じて疑わないウェイン・ルーニーが、エバートン3つ目のゴールを決めました! 」。だが、シアラーがイングランド代表デビューを果たしたのは21歳のとき。一方のルーニーは20歳の誕生日を昨年10月に祝ったばかりで、既にイングランドのキープレーヤーに成長している。
2002年10月、ルーニーはプレミアリーグで初ゴールを決める。試合終了間際での目を見張る鮮やかな決勝ゴールは、後に2001/02シーズンのチャンピオンに輝くことになるアーセナルの無敗記録を30でストップさせた。そして、人々にルーニーがいる限り、不可能は何もないのだということを知らしめた。ボクサーのようながっしりとした体格を持つルーニーは、相手の守備陣を跳ね返し、次々と記録を破っていった。
2003年2月12日に開催されたオーストリア代表戦では、17歳と111日というイングランド史上最年少で代表デビューを果たした。124年間、誰も破ることのなかったジェームズ・プリンセプの記録を塗り替えたのだ。そして、その7ヵ月後には、ユーロ2004の予選でイングランドが予選突破を決めることになったマケドニアとのアウェイゲームで先制ゴールを挙げ、これはイングランド史上最年少の17歳と317日での代表初ゴールとなった。
彼のうわさは瞬く間にイングランドから世界へと広がった。翌年夏、ポルトガルで開催された本大会では、全世界がルーニーの比類なき才能に気付くことになったのだ。相手サイドに深く切り込むルーニーのスリリングな走りは、相手の守備陣を震え上がらせた。恐れを知らない向こう見ずなプレーで彼は4得点を挙げ、イングランドがスイスとクロアチアを下し、準々決勝進出を果たすのに大きく貢献した。18歳という若さからくる彼のすさまじい勢いは、サッカーの国際舞台など朝飯前のことのようにすら思わせた。
その後、ルーニーは2,700万ユーロという高額な移籍金でエバートンからマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。昨年10月、トルコのフェネルバーチェとの対戦では、デビュー戦を見事なハットトリックで飾った。2005年春にはヤングプレーヤー・オブ・ザ・イヤーに輝き、ルーニーは瞬く間に地元オールドトラフォードにとって欠かせないヒーローとなったばかりでなく、イングランド代表においても不可欠な存在となった。マイケル・オーウェンは最近のインタビューでルーニーついてこう語っている。「敵陣に突進しては、相手の弱点を突く。後方からロングシュートを放つかと思えば、絶妙なパスを送る。ありとあらゆる場面で彼のスキルを見せつけるんだ」。言うなれば、何でも来いの腕前を持つということだろうか。
イングランド代表のトレーニングセッションで行われた新旧対抗戦では、センターディフェンダーとしての能力も抜群だった。練習場では一か八かのゴールを狙って楽しむほどの余裕をみせ、FIFAworldcup.comの取材に応じたイングランドの伝説、ボビー・チャールトン卿は「彼には勝負にかける旺盛な意気込みが感じられ、驚くほどだ」 とルーニーを評した。
10代に別れを告げたルーニーは、今後どこまで成長するのか。ルーニーのマンチェスター・ユナイテッド移籍について語ったアレックス・ファーガソン卿は、ルーニーを「イングランドにとって30年来の最高のヤングプレーヤー」と称賛する。しかし、ピッチの上での彼の才能に疑いの余地はなくとも、性格面で問題がないとは言えない。エバートンでプレーしていた2003/04シーズンでは、ゴール数よりもイエローカードの枚数が上回るという苦い記録もある。イングランド代表の試合においても、過去12ヶ月の間に2度も感情的になる場面があった。
イングランド代表監督のスベン・ゴラン・エリクソンは、昨年11月に行われたスペイン戦で、ハーフタイムを待たずに退場は必至だろうとルーニーをベンチに下げた。彼が2度目の問題行動を起こしたのは、9月に北アイルランドに敗戦を喫したときだ。イエローカードを受けた後、左ウィングに下げられたことを不服に思ったルーニーは、試合後半こそ口を慎んだものの、キャプテンのデビッド・ベッカムとリオ・ファーディナンドに暴言を吐き捨てる始末だった。そして、その同じ9月、ビジャレアル対マンチェスター・ユナイテッド戦で、ルーニーは審判のキム・ミルトン・ニールセンに皮肉たっぷりの拍手を送ったことが原因で退場処分を受けた。彼のプレーに切れがあることに疑いの余地はないが、精神面でまだ成長過程にあることは認めざるをえないだろう。
オールドトラフォードでディレクターを務めるボビー・チャールトン卿は、ここ一年間ルーニーを近くで見守ってきたが、彼が数々の過ちから学び、さらなる活躍をすることを期待している。先週イングランドの国立サッカー博物館で開催された毎年恒例の殿堂授賞祝賀式典の席で、チャールトン卿は「多少血の気の多いルーニーの気性ばかりが取り沙汰されるが、実際には違うんだ」とFIFAworldcup.comに語っている。「彼はこれからめきめき成長していくだろう。彼については、いろんな人がいろんなことを言っているが、レフェリーとの衝突問題にしても、じきに治まるに違いない。彼は頭の切れる青年だし、ピッチでプレーすることをこよなく愛しているから、退場処分ばかり受けてそのキャリアを台無しにしたりはしないだろう。時間が来れば彼も学ぶと思う。ルーニーには驚くほど高いモチベーションがあり、プレーすることをこよなく愛し、勝利への貪欲さも兼ね備えている。こればかりは文句のつけようがないよ」 。
ユーロ2004以降、ルーニーが挙げた10得点のうちイングランド代表戦での得点はわずか1ゴール。この1ゴールは、4-1で敗北を期した8月のデンマークとの親善試合で決めたものだ。しかし、FIFAワールドカップ™決勝トーナメントにおいて、ルーニーが相手チームにとって最大の脅威となることは容易に想像がつくだろう。チャールトン卿は、エリクソン陣営にとってルーニーの存在は重要だと考えている。「彼は偉大なプレーヤーだ。偉大なプレーヤーは否定を許さないんだ」。名だたる名将の1人からそれほどの称賛を得るという事実は、この夏のドイツ大会でルーニーが真に注目すべきプレーヤーであることの力強い証明でもある。
トッテナムのミッドフィルダー、アーロン・レノンの今夏の予定はFIFAワールドカップに出場するイングランド代表をテレビの前で応援することだった。そんな彼も今では「後で自分のプレーを見ておきたいから」と友人にビデオ録画を頼むことになりそうだ。
本来ならレノンのイングランド代表入りは見出しを独占するほどの大ニュース。しかし、スベン・ゴラン・エリクソン監督は、レノンと共にジレットベストヤングプレーヤーの候補にあげられている16歳のテオ・ウォルコットも招集していることもあり、実際はそれほど取り上げられなかった。スパーズで急成長を遂げているレノンはそんなことも気にせず、ただ素直に代表入りを喜んでいる。それもそのはず、リーズ・ユナイテッドからホワイトハートレーンに降格してから1年も経っていない。レノンは「信じられないことだ。まさかワールドカップに参加できるとは思わなかった」と語る。
2005/06年シーズン、トッテナムで素晴らしい活躍を見せて早々と注目を浴びた。そんな彼は、しばらくは右サイドのミッドフィルダー、ウェイン・ルートリッジの控えとして見習いに専念する覚悟で入団していた。しかし、シーズン開幕戦でルートリッジが足の骨を折ってしまい、レノンがその代理要員として出場。以来、彼の活躍は留まるところを知らない。「与えられたチャンスにはすべて挑戦しなければならないことは早くから理解していた」と本人は言う。
レノンは脅威的なスピード、そして卓越したボールさばきとクロスでしっかりとファンとスパーズの監督マルティン・ヨルの信頼を獲得した。ヨル監督は19歳のレノンを1シーズン目から29試合で起用した。そのほとんどは先発出場だった。
イングランドU-21チームの対オーストリア戦に向けて招集されたが、膝の裏を負傷し、UEFAヨーロッパ選手権プレーオフの対フランス戦を欠場した。その後、体調、調子ともども回復し、無類の独創性を活かしてトッテナムのUEFAカップ進出に貢献した。
ウェイン・ルーニーが中足骨を折った週末、レノンはスパーズ対ボルトン ワンダラーズの激しい試合で見事な決勝点をあげた。これ以上ない代表入りへのアピールとなり、レノン選出を求める周囲の声も高まった。
レノンはその際こう語った。「エリクソン監督があの試合を見ていたことは、チームメートが言っていたので知っていたが、自分はスパーズの勝利だけを考え、誰が見ているかは考えないようにしていた」。実際、エリクソンはその試合にしっかりと目を据えていた。「ここ2ヵ月半はスカウトから良い報告しかなかった。彼は体調は万全であり、それが何より肝心だ」。
レノンはイングランド代表のテレビ観戦に熱心な一ファンから一転、ワールドカップ本大会でどのような活躍ができるかを思い描く立場になった。「子供の頃、1998年のワールドカップでマイケル・オーウェンがアルゼンチン相手にひとりで驚異的なゴールを決めたのを覚えている。自分があれほどの威力を発揮できるとは口が裂けても言えないが、ドイツに行き、途中出場からチームに勝利をもたらすことができれば、正に夢のような話だ」。
本来ならレノンのイングランド代表入りは見出しを独占するほどの大ニュース。しかし、スベン・ゴラン・エリクソン監督は、レノンと共にジレットベストヤングプレーヤーの候補にあげられている16歳のテオ・ウォルコットも招集していることもあり、実際はそれほど取り上げられなかった。スパーズで急成長を遂げているレノンはそんなことも気にせず、ただ素直に代表入りを喜んでいる。それもそのはず、リーズ・ユナイテッドからホワイトハートレーンに降格してから1年も経っていない。レノンは「信じられないことだ。まさかワールドカップに参加できるとは思わなかった」と語る。
2005/06年シーズン、トッテナムで素晴らしい活躍を見せて早々と注目を浴びた。そんな彼は、しばらくは右サイドのミッドフィルダー、ウェイン・ルートリッジの控えとして見習いに専念する覚悟で入団していた。しかし、シーズン開幕戦でルートリッジが足の骨を折ってしまい、レノンがその代理要員として出場。以来、彼の活躍は留まるところを知らない。「与えられたチャンスにはすべて挑戦しなければならないことは早くから理解していた」と本人は言う。
レノンは脅威的なスピード、そして卓越したボールさばきとクロスでしっかりとファンとスパーズの監督マルティン・ヨルの信頼を獲得した。ヨル監督は19歳のレノンを1シーズン目から29試合で起用した。そのほとんどは先発出場だった。
イングランドU-21チームの対オーストリア戦に向けて招集されたが、膝の裏を負傷し、UEFAヨーロッパ選手権プレーオフの対フランス戦を欠場した。その後、体調、調子ともども回復し、無類の独創性を活かしてトッテナムのUEFAカップ進出に貢献した。
ウェイン・ルーニーが中足骨を折った週末、レノンはスパーズ対ボルトン ワンダラーズの激しい試合で見事な決勝点をあげた。これ以上ない代表入りへのアピールとなり、レノン選出を求める周囲の声も高まった。
レノンはその際こう語った。「エリクソン監督があの試合を見ていたことは、チームメートが言っていたので知っていたが、自分はスパーズの勝利だけを考え、誰が見ているかは考えないようにしていた」。実際、エリクソンはその試合にしっかりと目を据えていた。「ここ2ヵ月半はスカウトから良い報告しかなかった。彼は体調は万全であり、それが何より肝心だ」。
レノンはイングランド代表のテレビ観戦に熱心な一ファンから一転、ワールドカップ本大会でどのような活躍ができるかを思い描く立場になった。「子供の頃、1998年のワールドカップでマイケル・オーウェンがアルゼンチン相手にひとりで驚異的なゴールを決めたのを覚えている。自分があれほどの威力を発揮できるとは口が裂けても言えないが、ドイツに行き、途中出場からチームに勝利をもたらすことができれば、正に夢のような話だ」。


